「スリルとリスク」ヒラノ

2021年10月05日

「スリルとリスク」

ここ最近のお話を。

カウズ(KAWS)、バンクシー(BANKSY)がレガシーメディアを席巻していますね。これに関しての簡単な説明をしてみます。

KAWS

元々米ディズニーのアニメーターであったわけですが、おそらくその前の段階で(目がバッテンのアイコンとなったコンパニオンを創作する前)列車の車庫に忍び込みスプレーで作品を残してるんですね。不法侵入で器物破損、本来なら当局の捜査の対象となります。

その列車に描いた作品の背にして写真をパシリ。この写真をもって「彼はストリート出身だ」となるのですが。

人の身長よりも背の高い、いわゆるフィギュア(彫刻では無い)を作ったりするわけですが彼の凄い所はそれを【アート】の土俵にねじ込む事に成功したことだと思います。

ぶっちゃけ、キャンバスに描く作品はどれもベタ塗りでテクニックもクソも無く、絵画と呼ぶにはあまりにも貧弱death。「キャッチー」、「なんかちょっと可愛い」、それだけでのし上がったとも言えますね。あ、あとは「コネクション」

しかし、フィギュアがアートであるならプラモデルもラジコンもアートの枠に入ってしまいますよね?じゃあ、アートって何さ?という問いが生まれる。この辺りの「線引き」は文学・音楽にもつきまとう物と同じだと思います。

彼が芸術家か?という問いには僕は「違います」と答えます。彼は芸術家めいた評価を得てはいますが実際は商業デザイナーというのが正しい評価だと思います。彼は自らの「商品」を買い手に「アート作品」として販売しているのですが顧客満足度が高いがゆえにこの事実に皆気づいていない。そしてそういった状況を作るにあたってのセルフブランディングが大変上手かったと。そのセルフブランディングの結果、まったく新しい商品の概念を開発しました。それが「アートフィギュア」と呼ばれるものです。それは何ですか?と言われますとフィギュアです。普通のフィギュアです。なのですが買い手、ないし市場はそれをアートフィギュアと呼び、通常の玩具とは別枠で売買されるようになりました。

彼が芸術家か否かという話なのですが、アメリカ本国では無く、なぜ日本の人権軽視のユニクロと仕事をするのか?という時点で底が見えてます。リキテンスタインやキース・へリングやバスキアの様に既に他界したアーティストとは違います。おそらく権利関係、身内云々、とにかく本人からはユニクロから打診もされていなければ承諾もしていない。だがKAWSは自らの意思でユニクロと契約している。この行為は芸術と呼ぶよりはお仕事であり、ズバリ商売ですよね。

と、ここで。ポップ・アートを語る上では、以下の3つがキーワードになります。

(平面性)・(大量生産)・(消費社会アイコン)

故アンディ・ウォーホルは生前、こう言っていたそうです。

「お金を稼ぐことは芸術、働くことも芸術、儲かるビジネスは最高のアートだよ」

なるほど、きっちり実践なさっている。

詩に例えるなら、「ずいぶんつまんねぇな」

KAWSはニューヨークの人ですが、ここで視点を東京にしてみましょう。街を、盛り場を歩くと...

スタバ、居酒屋、キャバクラ、洋服屋、ファミレスにそうじゃない方のレストランとか、なんかいろいろ。そういった物件のあいだ間、スキマ隙間

ありますよね、自販機だったり標識の裏だったり、謎のステッカー。

都内は特に多いと思いますが、あれらは何なのか?

要するに作業時間の短縮なのですね。スプレーで描いていたら警察に見つかるから。それが一番の理由です。東京ほど警察官の密度の濃い街もありませんから。

それでは、ここからはBANKSYのお話を。

まず、グラフティー、この言葉の意味と身体性のお話をしないとなりません。階段を上り、隣のビルへ。そして屋根から屋根へ。

「なんで、あんな所に落書きがあるの?」

本人がそこに居たんです。そして描いたんです。

歩道橋に片手でぶら下がってスプレーで描いたんです。

グラフティーがアートに昇華される瞬間に絶対的に必要な物が「公共性」です。読めない歪んだ謎のアルファベット、醜悪な顔、なんだそれなメッセージ。でもそれらは公権力と本気で向き合ってるイカれた連中からの意思を持った行動の結果でもあります。

色々な身体の危険があります。そこにはスリルがあります。

スリル、他人に凝視されながら詩を読むスリル。評価に震えるスリル。

消されない様になるべく高く、誰も来ない場所に、とにかくなるべくヤバいロケーションで。そして大きく!

「見ろ!見ろ!見ろ!」「頼む!見てくれ!見えてるんだろ?」

「聴いて下さい」

スリル、似てませんか?

場合によっては停車中の護送車に書く。これは比喩では無く東京であった実際の事例です。水色と白の、大型車両の、パトライトの付いたバスの、警視庁の車両に。

BANKSY、彼が使う手法はステンシルと言われ段ボールで作った型紙にスプレー缶を吹き、壁に彩色する手法。時短もあるのでしょうが、作品のクオリティーを保つ事が期待出来ます。

彼はロンドンの人間ですが世界中にBOMBしています。(落書きすることを爆撃と呼びます)

彼を有名にしたアイコン、ネズミですがネズミって別に人間に恨みがあって元気良く生きてるわけでは無いですよね?ネズミらしくネズミとして生きる。

そこに飯がある(人間の出したゴミ)、それを喰う、そんでクソする。

これが悪なのか?という問いです。

そしてネズミは我々人間世界でも比喩の対象として使われる存在で、それは移民であったり、日本でいうなら在日問題や部落問題、そのものにあたるわけです。マイノリティーの象徴というわけです。

そして彼はパレスチナという地域に非常に興味をもっている。その残酷な時の流れに。

BANKSYは自分の見立てでは非常にロマンチストで世界皆兄弟とかマジで言うタイプで、イギリスのEU脱退にも反対の姿勢でした。そういう事であれば当然、移民ウェルカム!な立場であり、それがもたらす治安や税制上の不安や緊張をまったく無視している「人類みな兄弟」とか言い出す夢想家と評しても問題は無いかと思います。

そして本気でイカれてるのが、パレスチナ地区とイスラエルを隔てるコンクリートの壁にいくつもBOMBしている。それだけでは無く爆撃を受けて吹っ飛んだ街の壁に自分の背丈より大きな子猫の絵を描く。「お前らはインスタで子猫の写真にイイね!つけるんだろ?だったら俺が描いた子猫にもイイね!をつけろ!パレスチナの実情を見ろよ!」と。

どれだけシリアスなスタンスなのか、おわかりいただけますか?

スリル、まさにスリル満点のロケーションで、いつミサイルが着弾するかわからない場所で子猫を描く。それは大声でこう叫んでいるのと同じです。「もう止めろ!頼む、誰かこれを止めてくれ!」と。

BANKSYのスタイルは確かに誰でも模倣出来るでしょう。こういう時代ですし、ステンシルという技法もあいまって、偽物か本物かを理論的に分けるのが難しい作品は誰でも制作出来ます。まぁ、その行為自体がウイルスの様に人から人へ伝染した結果であるわけですがコピーは一生コピーであり、どこまで行ってもパクリであり、オリジナルになれるなんて可能性は一切無く、スラムの場であれば完全な負けです。

何故か?リスクを取って無いから。そこにスリルが無いから。

他人が書いた詩を読んでイキがってんじゃねーよ?黙れ。

それがションベン臭い壁であれ、誰も立ち止まらない駅前であれ、ステージから見た無関心な聴衆の前であれ、

リスクを背負うのが嫌で尻込みしたのか?自分の自信が粉々に砕けるのが怖かったのか?誰も聴いてなかったらどうしよう、とか思ったのか?

どうやら【リスク】とは【アート】の別称のようですね。

え?電車の中で知らない女のケツを触る?

いや、それはアートじゃ無い事ぐらい分かれよ?

ペンで刺すぞ?













ヒラノ