「弁当作り」青木研治

2022年06月18日

欠落とは、一種の満足感だ。
そもそも最初から自分の中には存在しないのだから、渇望することがない。

だけど、たまに自分の中にはないと思っていた感情と出くわすことはある。

俺は、毎日というわけではないが、弁当をもって仕事に出かけている。食費を節約したいわけではない。手間と思う人も多いかもしれないけど、俺は弁当を作ることが好きだ。っていうか、時々、無償に弁当を作りたくなるときがある。そして、俺がそんな気分になるときは、理由はその都度違うのだが、たいてい気が滅入っているときだ。

そして、そんな気分で作る弁当は、いつもより丁寧になる。
包丁できゅうりを切る音に耳を済ましたり、
いつも感覚で測っている、しょうゆ、酒、みりんの量を軽量スプーンを測ったり、
サラダにオリーブオイルをかけるだけじゃなくて、酢とオリーブオイルをしっかりかき混ぜてドレッシングを作ったり、
ドライではなく、フレッシュのパセリを刻んでトマトの上にのせたり、
メイン、サラダ、デザートだけでなく、スープまで作ってみたり・・・・。

すると、もう、仕事にいくために弁当を作っているのか?
弁当を持っていくために仕事にいくのか?
自分でもよくわからなくなってくる。

そして、インスタ映えしそうな弁当は出来たときは、少しくすぐったい気分になるんだけど
弁当を作る前よりも、確実に少し気分が良くなっている。

俺にとっての弁当作りは、自分の気持ちを整える要素がある。でも、その要素を引き出しているのは、自分の中にある母性のせいだと思っている。

母さんが亡くなってもう15年以上は経つ。
母さんが生きていたころ、たまに電話で話すと「ちゃんと食べてるか?」と必ず聞かれた。母さんから見れば俺が何歳になっても、子供にしかみえないのかもしれないし、いつまでもフリーターのまんま生活していた俺のことが心配だったのだと思う。一方、その頃の俺は、自分のことばかり考えていて、とにかく俺が元気に生きていること自体が親孝行なんだとたかを括っていたし、母さんが亡くなることなんて少しも考えたことはなかった。 

だけど、母さんは、あっけなく亡くなった。

少し長い入院になるかもしれないといわれていたが、実際は入院してから体調が急変して二週間ぐらいだったと思う。

葬式の日、俺は今まで生きてきたなかで、一番泣いた。

母さんが亡くなってしばらくの間は、とても辛かった。

だけど、ある時から自分の中で変化が起こった。

母さんは、もうこの世界からいなくなったけど、母さんが生きていたときよりも、母さんを近くに感じるようになっていた。

ちなみに、俺はスピリチュアルな話には、興味がない。

だけど、俺は確かに何かを手に入れた気がしたんだ。そのときはおぼろげな感じでよく分からなかったけど。

喪失とは、一種の成長の始まりだ。


そして、失ったものが、そもそも自分の外側に存在するものだったら、手に入れるしかない。

そういうことか。

行動は、呪文を唱えるよりも、実感を与えてくれる。

俺は母さんが亡くなったときに、母性を手に入れたんだ。

弁当を作っているとき、時々穏やか気分になるのは、俺の中で眠っていた母性が目覚めてくれて、俺自身を励ましてくれているんだろう。

とにかく、生きていこうと思う。

俺の中にある母性をうまく目覚めさせることができれば、俺は、もっと他人に対して優しくなれるかもしれない。

俺は、まだまだ成長できるだろう。

出会いと別れを繰り返しながら。

まだ知らない感情を味わいながら。