「深める」白井明大

2021年10月10日


どうしたらいまよりも詩を深められるだろう、という問いが、このところ浮かんでくる。こんなことを考えたことがあっただろうか。井の中に留まるのは甘やかでたやすく、それだけにこわいことだ。

これまで、どんな言葉なら、と問うてきた気がする。
どうしたら、と詩を問うのは初めてかもしれない。

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詩を深めたい。

そう思ったからといって、深まるものでもないと思う。大抵は、小さなことでいいから、日常の習慣を何か変化させるといったことのほうが、詩を深めることにつながるのではないだろうか、と思う。たとえば、早寝早起きとか。料理を作るとか。掃除をするとか。こまめに。定期的に。
変化は、すぐそばで起こるのに、遠くをばかり、大きなものばかり、目立つことばかりに気を取られやすくて。

それでも、思う。詩を深めたい。そのときは、考えるしかない。いまじぶんが書いているものについて。それを構成する言葉について。それが拠って立つ方法や考え方について。つまり、詩法と詩論について。

まっさらになって、新しい詩を書いたから、まだじぶんが何を書いたのか分かっていない。まだじぶんがどこまでをし、どこから不明なのか、見極められていない。

雲のなかにいて、空のどこにいるか、つかめていない。

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詩について何か言うことよりも、何も言えずにまごついていることが、詩に近い気がしている。詩について言うことは、少し詩から遠ざかることなのかもしれない。それでもいいから言いたい気持ち。それは詩への愛情かもしれない。愛するほどに遠ざかる。遠ざかるほど見つめている。あるいは只々知りたくて

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こう書く、というかたちからはみ出すことが必要なのかもしれない。もちろんいつでも必要だけど、もしいま書いている自分の詩を乗り越えようというのなら。深まるかどうかはわからない。いま書いている、こう、という詩のかたちをはみ出たとき、言葉は未知の姿をして、その未知がぼくの詩をおしひろげる

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二つの矛盾する軸を持てるように、時々そのことを思い起こす。一つの筋みちで詩を書かないように。もう一つ、相容れないものを携えてあるように。きっとそうすることが、自分とは違って当然の読み手へと言葉を架け渡す通路になるのではないかと。一つの言葉で押し通るようでも、また一つの言葉を添えて

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好きを好きと言うこと。青い空を青いと、青い海を青いと書くこと。それが表現ではないという声に耳を貸さないこと。そのかわりに、その通りであること。好きだと。空が青いと。海が青いと。心底言えること。あるいは、まったく違う何かをその言葉に宿すこと。つまり詩を信じること。

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土の上で歩きまわったり、草にふれたり、日に焼けたり。肉体がものことを直に感じるほど、そこから汲みあげたくなるような、言葉になる手前の言葉未満がふえていく。詩を深めるとは何なのか。詩を構成する言葉の深さなのか。名前一つ、動作一つの深さは、時に、身を通して持ち帰りできるのかもしれない

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(よったいきおいで)

自棄のない詩はいかんよ、と中也が詩にかいている

ほんとかなどうかなと思うかもしれないけども、ほんとでもうそでもどーでもいーから、詩は書きたいように書くもんだ

なんかあたまでっかちに書くもんなんかじゃないよ とかこういう感じが自棄なのか。自分を棄てるもんなのか

書きたいように書くのには ときにじぶんを棄てるのだろか



(よいがさめたので少し追記)

音数律を整えすぎないこと。自由詩は改行が音数律を定めるから/改行の呼吸は心に沿うこと

助詞が変化に富むこと。体言止めや終止形、否定形や命令形ばかりが続く型は本当に心に沿うものか/内面の振れ幅は助詞の変化の幅に表われる

じゃあ、ブレーキ踏んだままに気づけないところから、どうすることが走り出せることなのだろう。改行も助詞もアクセルになって背中を押してくれることはあるけれど。ぼくの心こそアクセルを踏む必要があって。自棄になるって、言い換えれば、正直になる。だめだめな自分なら、だめだめな自分を。

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あともうひとつ。どうしたら詩が深まるかといえば、そのように詩がたまたま生まれるのを願うほかない、のかもしれない、とも思う。どうしてこんな詩が生まれたのかわからない、ことがよくある。詩はひとりでに生まれくるものでもあると思うから、ただ書いて、一心に、そうだけができることかもしれない 

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詩は声でできている。とも言えて。だとしたら詩を深めるとは、声を深めることでもあるだろうか。深い声とはどんな声だろう。べつに低くなくていい。重くなくても、響かなくても。そのいまの自分の声というものが、より感じられるのが、声が深まることではないか。軽くても、掠れても、ふるえたままでも

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詩を言葉として書いたなら、そこには思想がにじむ。曖昧で、中途半端で、どっちつかずなぼくの思想はそのまま詩をかたちづくる。一歩踏み出し、その一歩分詩を深めようとするなら、思想が後からついてくる。後からついてくるように並走する。

思想が先で、詩が後からついてくる、ということもあるかのように見える。でもそれは、気が進まない考え方。少なくとも、好きではない。思いがけない言葉ほど、詩の生まれるわけだと思う。

それでも、詩には思想がにじむ。そのことを大事に書きたい。思想を忘れて詩を書きたくない。忘れようがにじむにせよ。こんなにも人間の値打ちを引き下げようとばかりする世情に抗うことも、詩の仕事だから。












白井明大