「現代詩とは何かー答える」(3) 長すぎる蛇に関する断章 平居謙

2022年01月03日

シリーズ 短小突貫ヘンタイ式連載「現代詩とは何かー答える」(3)

長すぎる蛇に関する断章


たしか北園克衛だったろうか。「長すぎる蛇はいない」といったような詩句を読んだ。もう四半世紀も前のことだ。ちょっと表現が違っているかもしれない。この言葉に触れた時、僕は吃驚した。なぜかと言えば、僕は長すぎる蛇ばかり見る毎日だったからだ。だから思わず「長すぎる蛇、いっぱい居るぜ!」と僕、叫んじゃった。


で、その長すぎる蛇っていうのはどこに居るんだい?それは現代詩文庫や現代詩手帖の中にいっぱいいる。あるいは、今ならポエトリーリーディングの映像の中にも沢山ぬらぬらと泳いでいる。老人たちがたくさん参加している地方詩誌の中にも沢山いる。若いヤツらが送ってくる冊子の中にも沢山いる。


長い蛇はカッコいい。見るからにぞっとするが、このぞっとさせ方がいいじゃないか。奈良の大仏もいい。ただデカいことが、人にとってどれだけ畏敬の念を催させるか。昔の人はよくご存じだったのだな。


ある時、190センチは優に超えるだろう女性が電車に乗り込んできた。もっとあったかもしれない。少なくともオーラとしてはもっとあった。2mオーラは出していた。東京駅の新幹線ホームでラジャ・ライオンを見かけたことがあったが、それよりも高いような気さえした。そういう時人は、カッコいい、としか思わないものなんだな。男性であろうと女性であろうとカッコいい。大きくて強いものは、無暗矢鱈にカッコいいのである。


予備校のころ。どこかのビルのトイレに入った。横の器にどこからか兄ちゃんがきて、おしっこをするためにモノを探っている。それにしては何だかごそごそといつまでもする。怪訝に思っていると、嫌でも見えるように誇示してきた。そこには、大蛇を遥かに上回るアナコンダのような蛇が文字通り鎌首をもたげていた。兄ちゃん、にやあっと笑っている。日本だよ、京都河原町だよ!僕はおったまげて逃げた。そんなこともあった。こいつはカッコいいとは思わなかったが、「長さ」には人を驚かせる何かがあるのだろう。


けれども長すぎる蛇は駄目だ。だらだらとして、歩幅があっていない。長い蛇はすりすりときもちよく蛇腹で移動するが、長すぎる蛇は偏平足でぺたぺたと足音を立てながら歩く。蛇ならばまだ可愛くもあるが、長すぎる詩は掬いようもない。蒲焼にもなりやしない。


長い短いは相対的な感覚である。長いけれど長いと思わず読み進めてゆくものもある。そのようなものは長すぎる、とは感じない。長く引っ張る力量もないのに長く間延びしている現代詩の長すぎる蛇は、発見次第通報し駆除してもらうに限る難物である。とはいえ通報するところもない。詩のタイヘンなところあるいはヘンタイなところはそこにある。自分自身が直感を尖らせて、長すぎる蛇と対決しなければならない。詩を書くことは、長すぎる蛇の捕獲人に自らを育ててゆくことにほかならない。




平居謙