「可視化されることの意味 ~映画「大きな家」について~」奥主榮
児童養護施設での生活を記録した「大きな家」という映画を観た。接することによって、いろいろと考えさせられる作品であった。
この映画の中では、「児童養護施設」という存在に対する先入観に基づいた描き方が一切排除されている。そこで当たり前に生活している子どもたちの姿が、ただ静かに描かれている。
人間の心の中に、偏見や差別意識というのが生まれていくのは、相手のことを知ろうとしないからだと僕は考えている。
映画の冒頭で、取材されている児童養護施設の前身が、戦災孤児の保護施設であったということが描かれる。戦災孤児は、今でこそ戦争の被害者という受け取り方をされている。しかし、敗戦直後の社会の中では、排除されるべきアウトローの集団という印象で受け止められていた。当時、ごくふつうに使われた「浮浪児狩り」という言葉に代表されるように、保護者もない(当時の通念からは、しつけをする大人と無縁の)子どもという存在そのものが、社会秩序への脅威のように受け止められていた。こうしたイメージの浮浪児は、例えば黒澤明監督の初期の作品「素晴らしき日曜日」の中にも、何の悪意もないままに描き出されている。社会に害をなす存在という先入観が、狩られて拘束される対象としての戦災孤児というイメージを生んだのである。煙草を咥え、生活の為には犯罪をくり返す孤児たちの姿は、当時の日常生活の中で当たり前に見聞きできるものであった。
そんな、保護からは無縁の存在であった戦災孤児たちの生活の糧を得る手段の一つに、靴磨きという仕事があった。路上で仕事をする彼らの姿を記録した写真には、子どもたちに貸し出された靴磨きの道具に刻印された、暴力団の名前が見られる。そんな話を、以前僕はネット上に書いたことがある。そのときに、印象的なコメントがあった。こんな内容であった。当時、行政も知り合いの大人たちも手を差しのべてくれない中で、任侠の方たちだけがたつきの術を提供してくれた、というものであった。コメントをくださった方のことについて詮索するつもりはない。ただ、そのコメントは、単純な二元論には収まりきれない世界の在りようを、僕に示してくださった。
相手に対して、もやっとした偏見のようなものを抱き続けるのが嫌いな僕は、積極的に他人に話しかけるようにしている。とうに還暦を過ぎている僕の老いた心は、偏見に満ち溢れている。だからこそ、「えっ?」と思わず感じた相手に対しては、積極的に話しかけるようにしている。
僕は、自分が偏見や差別意識と無縁な存在だなどとは思わないようにしている。むしろ、そうした歪んだ気持ちに支配されやすいからこそ、自戒の念を厳しくしたいと思っている。
「大きな家」という映画の中で描かれるのは、毎日の生活の流れである。そこに、何かを告発したいという意図は存在しない。一方的に可哀そうな子どもを演出したり、断罪されるべき大人を描き出したりはしていない。ただ、淡々と児童養護施設の中で生活している子どもらの日常を描いていくだけである。
そうした映像に触れながら、心の汚れた僕は、様々な先入観を抱いていた自分に、改めて付き合われた。ことさらに「不幸」を強調された子どもや、そうした子らを産みだす大人の「悪さ」が描かれていたら、観客の感情を煽りやすい映画になったかもしれない。そして、そうした表現によって自分の気持ちを鼓舞させて、気持ちよくなるという陥穽に、人は陥りやすい。
けれど、確実に存在する個々人の、代替できない心というのは、誰かの意図によって操作されてはならないものなのである。
この世界には、何かひきつりのような歪みが存在している。そして、そうした齟齬に出くわしたときに、多くの人はそれを見過ごしている自分を正当化しようとするのではなかろうか。けれど、僕にとって、この映画と出会うということは、自分が無意識にしているそうした自己正当化という振る舞いについて改めて直面させられるということであった。
世界の多くの痛みや苦しみは、周囲の人々にとっては不可視なものであることが多い。しかし、この映画と先入観を捨てて向かい合うことは、そうした、今まで自分が見ていながら見ていなかったものを意識していくことであると、そう考えさせられた。
二〇二五年 四月 一二日