「抒情詩の惑星」について/ 加美 悠

2021年12月11日

 他者が言葉を使うことを鬱陶しいと思い、自分自身が言葉を使わなければならないことを苦々しく思う。
普段は論理的、又は美的に精製された文章しか基本的に読まない。そうでない文章を読むのは非常に疲れるからだ。
しかし、「寄稿してくれないか」「批評がたりない」と言われ、試しに「抒情詩の惑星」全体の三分の一程度のページを読んだ。

 個々の作品に言及することが、ひとつの案内として必要だろうし、良かろうと思ったが全てを読めていないので避けている。かわりに、「抒情詩の惑星」そのものを問題の中心に据えて書くことにする。

 現代はTwitter、Facebook、動画やネットニュースのコメント欄、レビューサイト等において短文、もしくは長文で意見、感想、主張を自己表現として載せている人々が驚くほど沢山にいて、文章がインターネット上に、膨大に存在している。
この「抒情詩の惑星」に載っている文章とそれらの文章の何が違うのだろうか。
つまり、「抒情詩の惑星」がどういう場であって、其れらとの何を違いとして生むのだろうかというのが、このサイトを少し眺めた後に思ったことだった。

 混淆している。というのが「抒情詩の惑星」に対する第一の印象であった。
様々な人の手に成る散文、随筆、随想、詩、小論といったものが集まっている。
 タイトルを見てみる。名前に冠されている抒情詩が内容の大半を占めている訳ではないので、まあ語感で決めたのだろう。そして、トップページには人間復興と記されている。「人間」とは「人間性」とか「人間らしさ」の事だろうか。では、「人間性」とは何か。
復興という事は興隆していた事があるという事だから、その興隆とは具体的に何を指しているのか。「人間性」という概念が生まれ、その観点で社会を見ることが主流になったのは19世紀以降だから...などと、考えたがやめておいた。
正確な意味の検討作業は重視しないのだろう。言葉の意味ではない部分で伝達されてくれ、というところか。
それは、ただ曖昧なだけかも知れないし、ある意味の詩的言語と言えるのかも知れない。



    現代芸術における作品は自らの芸術史上の立ち位置や批評性を担保しておく必要に迫られる。その状況が生みだした作家として分かりやすい例はバンクシーだろう。彼の作品には愛と平和といったテーマ、ゲリラアート、環境芸術であること等の現代芸術上の成立要件が意識されたように数多く備わっている。それでいて話題を定期的に集めるため、批評を受けることにも事欠かない。しかし、彼の作品には芸術作品が持つ最も重要な「何か」が全くないと私は感じる。彼が芸術家の代表格として扱われる現代芸術のこの状況には首を傾げている人も少なからずいるだろう。
 また、日本の詩芸術においての「現代詩手帖」に代表される批評的自省から発した複雑な言葉遊びの詩が主流と見做されている状況、にも違った方向性だが似たようなことを思う。それは、どちらにも内向きであると批判することが可能であるということだ。トップページ上に「ごく一般の人の胸に通づる詩、言語、表現力を」と記されてあるが、この文章の作者には、こうした芸術の状況全般に対するもどかしさ、問題意識があるのではないだろうか。



    人間は自分の寝床に寝、電車に乗り、小売店で買い物し、職場に行って働くなどしている。そういった風に毎日を過ごす。しかし、地面、地殻の下にはマグマがあり、マントルがあり、核がある。上には宇宙があり、惑星があり、ブラックホールがあり、ホワイトホールさえあるかも知れない。全く訳も分からず果てしない、対しただけで全身がすくむような深淵がありふれて存在している。
この深淵を感じさせることが芸術作品の最も重要な成立要件である。
それはこの深淵が人間世界と人間的認識、つまり言語的認識の内部から見たその外部のことでもあり、また、その「隠喩」でもあるからである。

人間世界、人間的認識の内部をボードゲームの盤面、そしてその外部、深淵をその盤面の外だと仮定しよう。

宗教者は盤面上の全ての駒を捨て去ることによって、
哲学者は駒の動きの規則を事細かに表すことによって、
芸術家は駒に理由も意味もない、確信めいた動きを加えることによって、
盤面の外をただ示す訳である。



「抒情詩の惑星」とは、よい名前だ。