「詩について」加美 悠

2021年12月29日

 高校に入学しようかという頃、中学時代の教科書の整理をしていて「国語便覧」という教科書が出てきた。この教科書には、日本の文学者がとかく沢山載っていた。筒井康隆の絶筆事件などにも触れていた記憶がある。面白い教科書だった。教科書にはルーズリーフが幾つも挟まっており、其れは、当時の授業ノートだった。その中の一枚に「落日に 赤く見えんと 立ちていん われより高し 黒人と麦」という短歌が書いてあった。明らかに寺山修司の作風の歌だが、未だに彼のものとは確認できていないから、あの唇の傾いた国語教師の歌なのかもしれない。当時の私はそんなことはどうでもよく、「黒人と麦」をえらく気に入ってしまい、「ははははははははははははは、黒人と麦!」「黒人とムギ!」「こくじんとむぎ!」というように、ひたすら「黒人と麦」をぐるぐる一日中頭の中で反芻し続けて愉しんだ。

 言葉には意味がある。そして、ある時代におけるある言葉の意味はその時代の辞典によって定義される。これは、言葉を使った学問が記号や図形、数式を扱う学問と同様に「一般的・普遍的真理」、ある方法を正しく使えば誰でも同じ真理に辿り着けること、を確保できる理由である。しかし、突き詰めると、まさにこの方法によってこのこと自体が揺さぶられる。これは一つの人文学的深淵だ。
 言葉の意味以外の部分というのはなんであろうか。音であろうか、その感覚であろうか。言語芸術において言葉の意味を伝えることが中心的な問題となるわけではないのは、明らかだ。しかし、言葉の意味以外の部分はそのまま他者に伝達できるのだろうか。また、言語芸術における伝達は、いったい何を伝えることなのか。

 詩の愉悦とはなにか。詩について、抽象的な事柄について述べるためには隠喩的になることが避けられない。そのため、詩を読む人たちが恐らく何を愉しんでいるのかについて述べる。現代詩においてはその音律性、その構造物性、その隠喩性という要素が主だろうと思う。
 まずは音律性について。何か言いたくなってしまう、何度も反芻してしまう言葉、言い回しは誰にもあるだろう。教科書に載っているような現代詩でいえば「ゆあーん ゆよーん ゆやゆよん」など、音の面白さによる中毒的な反復である。愛着のある音律、つまり音楽に対して人はひたすらに反復する。歌う、演奏する、聴く、思い出す。古くから続く定型詩や韻文は音の調子を規定し反復を促す、詩はそもそも歌であり音楽と分離することが無かった。
 次に構造物性について。例えば、目の前にかなり変形した建物があったとする。その形状に何故か魅かれて眺めたり、素晴らしいと思ったりする。そういう感覚で詩を悦ぶのである。一つ一つの言葉、言葉同士の空白は建材として扱われ、建物を構成する。この要素は特に現代的、近代的なものだと思われるが、これが恐らく、現代詩が難解で読み方がわからない、愉しめないと言われる要因だと思われる。「言語そのもの」に対する感知能力が必要になるからではないか、と推測しているが、実際にどうなのかは知らない。この構造物性にかなり自覚的だったと思われるのは、ステファヌ・マラルメである。そういえば、彼にはよく「難しい」という形容詞がついて回る。
 最後に隠喩性による悦びである。度々、言語的認識の外部に触れているので、ここでは田村隆一の「言葉のない世界」が適当な例だろう。題名の通り、到達不可能な言語的認識の外部を言語によって「直接に」隠喩しようとした有名な詩作品である。インターネット上にあるだろうから、是非読んで見ることをお勧めする。他にも要素はあるが、この三つに絞って述べた。また、断片的に、または全体的に、その他の要素も含めたそれらの面白味を一挙に理解してしまうことを芸術的直感と呼んでもよい。




言語的認識とその限界、言語そのものを問題の中心として一連の文章は巡っている。
有効な水準の批判は繊細で丁寧な思考の言語化によってしかなされない。
感情にもとった行動や動機では強度として立ち向かえる程のものは生み出せない。




加美悠