馬野ミキ『ポイントカードはいらない』について 加美悠

2022年01月09日

参照:『ポイントカードはいらない』馬野ミキ


 実際の詩には勿論、一つの作品に様々複数の要素が含まれる。馬野ミキの詩は基本的に隠喩性を基調としたものか、語り物、叙事性を基調としたものに音律性、構造物性、描写美など様々な要素が散りばめられている、という様式のものが多い。そして『ポイントカードはいらない』は隠喩性を基調とした作品であり、その基調とは「狂気」と「狂気」の構造についての隠喩である。

 始めに、この作品における「ポイントカード」が具体的に何であるか、について検討してみる。
ポイントカードは限定的、局所的に交換価値を持つ擬似的な紙幣であり、通貨である。では、紙幣、通貨はどうやって価値を持ち、どのようにしてそれは流通しているのか。
 ある紙幣は人々がその流通価値を信じることによって成立する。その紙幣に価値があるということ、且つ、他人にとっても価値があるということの両方を仮定しなければ、信じなければ使用できないのである。

 「正気」は人間社会に流通する「現実には形を持たない紙幣」のようなものである。または、「常識」、「普通」も同様にそのようなものとして流通している。
例えば、人間社会ではあらゆるものが「みんな、普通はこうするであろう」ということを前提として作られている。電車、会社、学校、建物、エレベーター、法律、倫理、規則等、人工のありとあらゆるもの、である。
 しかし、実は「みんな、普通はこうするであろう」が実際にどういうもので、自分の「みんな、普通はこうするであろう」が正しいかどうかは誰にも分かることがない。
つまり、流通している紙幣(=「みんな、普通は~」=「正気」)の形が不明なのだ。加えて、「みんな」というのが一体何を意味するかについて人間の理解が及ぶこともない。
 それにも関わらず、各々の「みんな、普通はこうするであろう」を殆どの人がその正しさを疑わずに使用し、尚且つ、それは大抵円滑に流通する。

 では、「みんな、普通はこうするであろう」が明らかに違う、または奇妙に違う場合は存在しないのだろうか。当然、存在するだろう。それが「狂気」である。
そして、その自分の「狂気」を「正気」として理解する人間、それが狂人だ。彼らはそれぞれに異様な印象を与えるような振舞い、反応を無自覚的にする。それは、さながら流通価値のない紙幣を、流通価値があると信じ込んで差し出し続けるようである。

『ポイントカードはいらない』の語り手は紙幣のやり取り、つまり会計の際、「レジの女性」の呼び掛けに負けじと差し出した彼自身の「ポイントカード」、つまり「狂気」を困惑とともに拒絶される。
そして、結局は「狂気」を社会から締め出す警官に預けられ、社会における「狂気」の対応者である先生(恐らく精神科医)、心理士と付き合うことになる。

 私のこの読解が正解であるとか、そういったことではない。批評芸術というものが存在しているとするならば、それは、批評対象の内に自らの見ている深淵を現出させる営みだろう。


 馬野は自身の知る真理について極端に言語化ができない人であった。ただ、自身の作ったものにおいて無自覚的に示すということしかできない人だった。だが、芸術家という人種の人達にはそういう性質の人たちが少なからずいる。

 そして、馬野にはもう一つの側面がある。ある特異な倫理家としての一面である。それも真理の場合と同様に、その倫理について極端に言語化できない倫理家である。馬野が長い間、全てを曝けるような文章をインターネット上に記し続けていることは、彼のことを知っている人であれば認識していることかと思う。これは彼の特異な倫理における美徳の代表的なものであり、ただ、その実行である。
 同じ様に、特異な倫理を持ち、尚且つ、その倫理について明確に言語化しなかった人物として思い浮かぶのはイエス・キリストである。神としてではなく、ある特異な倫理家としてのキリストである。彼はユダヤ教的倫理観を基礎として、ある確信のもと独自の倫理を形成し、それを説教という形で表現した人間だった。その後、彼の倫理は変形した形で解釈されて福音書に収められ、その倫理的制約に惹かれた足腰の立たない信仰者を数多く生み出し、ある程度一般化したのではあるが。

 しかし、倫理というものは結局つまらない。人類全体の方向性について幾ら志向しようしまいが、誰かの倫理的正しさの次元とそれとは全く関係が無い。それは「みんな」が一体何なのか、およそ一人の人間には把握不可能なことと似た形での関係の無さである。神になってしまうのであれば話は別だが。

 馬野は自身の倫理と対立した倫理に接したとき、自身の倫理的な「正しさ」が揺るがされるときには、よく激情に駆られて怒りを顕にしていた。だが、全く異なる倫理に基づいて存在している人々がもはや「正しさ」のための陳腐な闘争もせず、それぞれ単独に蠢いている世界こそが面白く、理想的な世界だと私は思う。もはや、それは倫理ではないのだから。
キリストが言った「あなたがたの間にある」「神の国」の到来とはそういった単独性の実現の話だと私は受け取っている。

 現時点まで、馬野がその特異な倫理を貫徹できたのかは知らない。これから先、貫徹できるのかどうかも私はもう知ることがない。特異な倫理が単独で貫徹されたのならば、筆舌に尽くし難いほど「立派」な行為であると私は思う。馬野の倫理空間では「立派さ」という概念は彼の「正しさ」によって否定されるだろうが。

付記

『詩について』執筆当初では全ての作品の隠喩的なテクストの塊りが、他のテクストの塊りと複数に関係を持つような文章を創作したい、と考えていたが、ある事情から断念した。だが、『抒情詩の惑星について』と『詩について』に関してはその名残としてテクスト間の緩やかな複数の繋がりが存在している。
対して、『詩について』と『馬野ミキ「ポイントカードはいらない」について』は明晰であることを意識した、連続した作品として連結しているため、結果的に三つの作品の総体が歪な形となった。残念なことである。

どの作品にも、私が世界で初めて言語化している、という箇所がある。
満足のいく仕事ではなかったし、失うべきものも失ったが、そのことに深い価値を感じている。





加美悠