「1998年の千葉ロッテマリーンズ」大島健夫

2022年04月26日

宇宙で一番弱いプロ野球チームがあった
その名を千葉ロッテマリーンズといった
海から強い風が吹くスタジアムで彼らは戦い
全ての試合を負けた

東京湾に夕陽が沈む時刻
人々は、死者たちの魂を両腕に抱え
スタジアムの切符売り場に長い列をつくった
みんな、暗闇が夜明けに変わる瞬間が見たかった
しかし、時には明けることのない夜もある

マウンドにはジョニー黒木が立っていた
彼は頭がいかれていた
まともではなかった、完全に狂っていた
マリーンズが優勝できると本気で思っていた
だが、彼がうなり声を上げて速球を投げ込むと
観ている人々の頭もいかれた
まともではなくなり、完全に狂った
それは非道徳的だった
非文明的で非教育的で
社会の良識を侵し、公序良俗に反していた
人々は大声で叫んだ、ジョニーは必ず勝つんだ
マリーンズは優勝するんだ
俺たちは生きている、俺たちは生きていくんだ
しかし、スタジアムを一歩出ると、彼らの全てが孤独だった

マリーンズは今日も負けた、昨日と同じように、いや、昨日よりもずっと酷い負け方で
ジョニーはマウンドに膝をつく
その眼には涙が光っている
彼は本気で思っている、勝てたはずなのにと
内野指定席の外れで、六歳の娘に父親が言う
もうダメだ、いままで応援してきたけれど、俺はこれ以上こんなクズに付き合いきれない
娘は生まれて初めて父親に逆らう
クズなんかじゃない
お父さん、あの人たちはクズなんかじゃないよ。
二階席の隅で、肩を落とす二十三歳の青年に恋人が言う
ねえ、もう十分でしょ
今度から、一緒にジャイアンツ応援しよ?
青年は立ち上がり、静かな声で恋人に言う
今まで本当にありがとう
でも、今日で別れよう
これからは別々の道を歩いていこう。
千葉地方裁判所では、裁判長が被告を説諭する
あきらめなさい、ジョニーが勝つことはないのです
あなたは夢を見ているのです、マリーンズが優勝することは絶対にないのです
更生しなさい、そして帰りなさい
家に帰るのではなく、社会に帰りなさい
被告は言う、嫌だ、マリーンズは優勝するんだ
ジョニーは必ず最後には勝つんだ
おまえこそ更生しろ、そして帰るんだ
家に帰るんじゃない、社会に帰るんでもない
自分の本当の人生に帰るんだ。

果たされなかった約束が増えていく中
叶わなかった夢がひとつ増えていく中
マリーンズナインは命をかけて戦い続けた
小宮山悟は命がけでアウトローにスライダーを投げ
初芝清は命がけでファールフライを追った
堀幸一は命がけで右打ちし
近藤監督は命がけでスクイズを命じた
しかし西武戦、松井稼頭央は時速300キロのF1マシンでマリーンズナインを轢き殺した
日本ハム戦、ナイジェル・ウィルソンは核ミサイルをスタジアムに撃ち込み、幕張を不毛の土地に変えた
オリックス戦、イチローに魔法にかけられた観客はひとり残らずピーナツに変わってしまった
福岡ダイエー戦、王貞治監督は868本の日本刀で房総半島を細切れにした
近鉄戦、佐々木恭介監督の「ヨッシャー」という叫び声が、県内に残っていたすべての酸素を奪った
また今日も負けた、カレンダーは黒い丸で埋め尽くされる
白い丸を描くことのできる日を待ち望みながら、年老いたものは死に
時には若いものも死ぬ
学校の先生の言うことは嘘だ、努力は報われない
宗教家の言うことは嘘だ、祈りは届かない
政治家の言うことは嘘だ、世界は良くなったりしない
足を引きずり、地面を這いずり
それでも生き残った人々はスタジアムにやってくる
ポケットに最後に残った金でチケットを買い
「俺たちの誇りマリーンズ」をうたう
よく聴け、これが俺たちの人生で最後にうたう歌だ
生きてきた、生きてきたんだ

暗い夜に月が昇る
三日月が昇り、やがて半月に変わる
そして満月に変わり、また闇がやってくる
スタジアムは亡霊でいっぱいだ
だが、どこに違いがあるというのか
生きて野球を観る人間と、死んで野球を観ている人間に
1998年はやがて暮れ
数億年の歳月が過ぎ去り、千葉に2005年がやってくる
阪神タイガースとの日本シリーズ第一戦
試合が進むにつれ、スタジアムは真っ白な霧に包まれた
誰も見たことがないほどの深い霧だった
その霧の中で、マリーンズの選手たちは次々とホームランを放った
今江敏晃が、イ・スンヨプが、里崎智也が、ベニー・アグバヤニが
7回裏1アウト、主審が濃霧コールドゲームを宣する時
内野指定席の外れで、涙をこらえながら、年老いた父親が言った
俺はおかしくなってしまったのか
完全にボケてしまったのか
俺はいま、マリーンズが勝つところを見ているような気がするんだ。
スタジアムまで車椅子を押してきた娘は父親の背中をさすり、言った
いいえ、お父さんはボケてなんかいない
私にも見えるよ、私たちはいま、ほんとうに
マリーンズが勝つところを見ているのよ。







大島健夫