「心の初期微動を捉える――大阿久佳乃『じたばたするもの』について」ヤリタミサコ

2023年05月28日

 大阿久佳乃『じたばたするもの』(サウダージブックス、2023年)はアメリカ文学を中心としたエッセイ集だ。小説ばかりか現代詩が取り上げられていることが珍しい。詩の読みを散文で書く人は少ないから、貴重な仕事である。セアドー・レトキー、W.C.ウィリアムズ、フランク・オハラ、エリザベス・ビショップ、ガードルード・スタイン、金関寿夫『アメリカ・インディアンの詩』、アドリエンヌ・リッチが取り上げられ、肩肘張らず、淡々と読んで考える姿勢に好感が持てる。
 まず、"この時代"(と言ったとたんに、読者の数だけそのイメージが存在するはずで、コロナ禍の時代、ポストトゥルースの時代、多様性の時代、など様々な形容が立ち上がる)に、自分の感覚をまっすぐにつかみとり、それを率直に表現することの勇気と美しさ(!)に着目だ。漱石の時代の何万倍も「智(ち)に働けば角が立つ。情に棹(さお)差せば流される。意地を通せば窮屈だ。兎角(とかく)に人の世は住みにくい」現代にあって、自分の内部に刷り込まれてしまった外的価値観による検閲、次はネット社会や権威的社会の眼差しを意識する自分による検閲、それらに萎縮することなく(あるいはいったん萎縮しかかっても振り切って通過していく)、忖度などという妖怪みたいな言葉を軽々と蹴飛ばして進む爽やかさ(!)に、ブラヴォーと言いたい。もちろん、そこに至るまでは逡巡も葛藤も鬱屈も経たはずだが。
 ウィリアム・カーロス・ウィリアムズを取り上げた「『もの』そのものへ」という章では、詩論や学者の解説をするりと超えて(いや、すべてちゃんと消化したうえで、と言うべきか)、大阿久は「『ある』ことを感じ取るときの、初期微動みたいな心の動き。もっとも単純な関心。」「あ、という軽い驚き」というように、彼の詩の本質を柔らかな言葉で的確に捉えている。"no idea but in things"「事物を離れて観念はない」というのがウィアムズの詩学なのだが、それを「初期微動」と実感している部分に共感する。ポエジーとは心の震えだから、初期微動に違いない。が、時間のスピードに追い立てられて生活する上で、信号に注意とか、仕事の次の段取りとか、友人や家族との関係など、次々に襲ってくる大波小波の中、心の初期微動はすぐに停止する。その微かな振動を感覚で受け止めて記憶し、その後時間をかけてその振動を増幅し、言語に反映させていくと詩ができるわけだ。冷たいモモのおいしさとか、猫がアクロバティックに動く姿とか、ガラスのカケラが反射して光っている風景など、忙しい現代人が即座に忘れ去る微かな心の震えを、ウィリアムズと大阿久は「軽い驚き」として記憶し、心に定着させている。それは、記憶力とか忙しさには関係ない。誰にでも起こっていることなのだが、誰もがすくいとって別置して保管しないだけなのだ。
 次にフランク・オハラの詩について、大阿久は以下のように記述する。
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 生きる人間の必死さ。それはオハラの詩からはっきりと感じ取れる一方で、どこかちゃちに描かれている。詩の書き手であるオハラが、都会を舞台とした人生の悲喜劇を(懸命に)生きる自己を小さくする。多くの人が生きる都会で自分の存在感が薄くなる感覚。オハラの場合、その矮小化された自己を眺める視点は、決して彼を離れ、俯瞰的となることはない。彼の視線は「今、ここ」のみに注がれ、自分自身でありながら同時に自分を小さくする。その自我を誇ることも恥じることもない。この「懸命さ」と独特の達観のバランスが面白い。(…)友人の死や愛着のありそうな詩集に目を留めたくなるが、彼は掘り下げない。このバランス感覚は独特で、これは日常的な事物と何やら重要そうなもののコントラストを示しているというより、後者がとめどない日常のチャームポイントになっているような風合いを見せている。
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 前述のウィリアムズで感じた「初期微動」が大都会の雑踏のざわめきに紛れつつ、それでも消えることなく日常生活と共存しているあり方を、大阿久はよく捉えている。そうなのだと思う。死にたくなるほどの不幸や怒りも他人から見たら三面記事みたいなものだし、無数の人生と無数の幸不幸が流れていく中、自分だけが世界の主人公ではない。でも自分の心の震え=詩は、どれだけ多数の大振動の中にあっても別格の存在だ。ビリー・ホリデイが死んだ日の新聞を見た詩「レイディ・デイが死んだ日」では、オハラは、チープなランチを食べて銀行係員の動向を気にして本屋で買う本に迷い酒屋で買い物をし、ビリーの死を知るのだ。それはシェイクスピアが描く死のような大仰な舞台設定の悲劇的ものではなく、日常生活の中にポツンと空白が浮かび上がるような小さなショックでしかない。この詩では書き手の感情は一言も書かれず、ビリーのライブを聞いた思い出がリアルに立ち上がってくる場面で終わる。そして、その言葉たちの末尾から見えない空間に発生するのは、唯一無二のビリーがいなくなった悲しみだ。ここが大阿久の言う「掘り下げない」良さだ。
 人生の時間軸で動いている生活の次元とは別個に、心が震えたり止まったり傷ついた状態になったりするエモーショナルな流れは誰でも持っている。それをどの程度意識して大切にし、守っているか、そこは人それぞれだ。大阿久はその取り扱いが暖かい。次作にも期待したい。

*サウダージブックスから発売されています。
https://www.saudadebooks.com/books





ヤリタミサコ