「晴天の詩学10―「現代詩とは何かー答える」シーズン2「無」と言う名の序章」平居謙

2023年07月07日


小学生のころよく作文をよく書かされた。遠足のあとや運動会のあとには書くことがあっても、先生が風邪でお休みされた日に別の先生が変わりに教室に入って来られて「じゃあ今日は、好きなことを作文に書いてください。」そういう類の時間はどうにも苦手だった。そんな時は〈書けない、書けない、どうしたら書けるのか〉みたいに呻くような呪文のような言葉を書いた。多くの人に共通する体験とみえて、〈え?あなたも?笑〉みたいな感じで盛り上がることがある。


先日ある合評会で〈書けない書けない〉系の詩に出合って幼い頃の教室の光景が浮かんできたのだった。小学生の作文じゃないんだから書けない理由を書くという負の連鎖はやめようよ…とそんな発言が口の先まで出かけたが、意外と詩人たちはそういうことをやっているのだということに気付いた。


近代詩・現代詩の流れので、多くの詩人たちが〈言葉への夢・詩の悦び〉を詩の中で書いている-これも変だと言えば変なのだ-が、その一方で〈言葉への不信・懐疑〉を執拗に語っているのだ。この現象にはずっと注目していたのだが小学生の作文の言い訳と結び付けて考えたことはなかった。


〈書けない書けない〉系の詩を書いた書き手-仮にAさんとしよう、がもしそれを書かなければどうなるか。Aさんはその合評会に出ないか、出ても詩を出していないということになる。詩を出さないということがなぜまずいのか。そうなると自分と詩との関わりを証明することができないことになるからだと僕はそのとき気づいたのだ。


〈書けない書けない〉とまで書いてともかくも詩を捻出することは、小さな子供が〈あれ買って!あれ買って!〉と駄々をこねて地面をのたうちまわることに少し似ている。恥も外聞もなく、ともかく自分と詩との関係を他の誰かに示す事。それによって証明されることはたった一つ、詩への憧れに他ならない。憧れて憧れて、手に入らないものこそ本当の詩だろう。内容も何もない「無」を書く。そのことによって、その日Aさんは詩への序章を書いたに違いないのだ。





平居謙