「猛スピードのジグザグを感じて――広瀬大志『毒猫 異形篇』を読む」ヤリタミサコ

2024年05月07日

 この詩集は西脇順三郎賞受賞の詩集『毒猫』から派生した企画のようで、本篇をまったく知らずに読む面白さもあると思うが、私は比較しながら味わってみたい。
 まずは、本篇にない5行に痺れた。「聖痕(スティグマ)の日(ロングバージョン)」では、「どこにもいないわたしは戦慄を満たしている/どこにもいないわたしは慟哭を満たしている/どこにもいないわたしは生贄を満たしている/どこにもいないわたしはおまえを虚ろにして/おまえはわたしのいた場所に満たされていく」という20文字*5行がツインバスドラムのように低く響く。そもそも詩の言語は、一般的な意味を超えて使用されるから、詩として深みを持つわけだが、「どこにもいないわたし」と「満たす」「虚ろにする」という暗黒の淵を覗き込むようなスリルは何なのだろうか。
 次にぐっと引き込まれるのは、「キャッスルロック・フルスロットル(補完)」。詩集『毒猫』収録の同名作品のそれぞれの行に対して、発想の元となったスティーブン・キング作品名が付記されたもの。ここで感じるのは、文字の大きさとスピード感の違いだ。つまりB6変形の『毒猫』では文字のポイントが大きく、この1篇の詩は8ページとなる。がA5版『異形篇』では5ページ半だ。断然、5ページ版の方がスピードを感じる。下部に注記が付記されていても、だ。私は昨年『毒猫』のレビューを書いたが、速度を見落としていたことに気付く。造本とは、こういうものだと実感する。
 「もどりみち(「毒もどり」別バージョン)」では、本篇の改行や空白行が切り詰められているので『異形篇』の方がテンポ良くストーリーが進む。毎行ごとに「。」で終わるので、それぞれの行が描く異様な光景が強制終了させられ、ぶつ切りの死のイメージが散乱していく。黒死病と呼ばれた中世のペストで死体が累々と積み重なる絵画が思い浮かぶ。
 「毒猫(リミックス)」では、詩集に収められるバージョンと、単独作品としての存在の在り方との違いが読み取れる。本篇第Ⅱ章ではタイトルに「毒」がついた作品が10篇並ぶので、それらの調整が必要だったと推測される。対してリミックスバージョンでは本篇よりも改行が少なく、行数も増えている。が、増えた分はテーマを濃く反映する部分というよりも、強いイメージを引き立てる部分、いわば、強弱をつけるための「弱」部分だと思われる。「何かを語ることは/悲歌の片隅で眠る/ついに見いだされた/誤謬の轍であることを」のような数行の落ち着きが、強いイメージのまがまがしさを引き立てている。「コンセプトをより強めた」との付記に納得する。
 広瀬は、ずいぶんと大胆に手の内を公開したものだと感心する。創作のプロセスの一端が見えるこの企画は、勇気ある実験だ。詩人たちはもっと、吉増剛造のように時間空間を越境し、広瀬のように猛スピードでジグザグしてみたら愉快だろう。





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