「生きることと語ること――夏野雨『雲のからだ 海のからだ』を読む」ヤリタミサコ

2023年11月06日

 この10月に出版されたばかりの、夏野雨『雲のからだ 海のからだ』という詩集では、特に散文詩が読ませる。詩情豊かで絵本に仕立てたいと思うのが「太陽はひとつじゃない」という作品。全編平仮名表記で、子どもに読み聞かせするようなトーンだ。子どもにもわかるボキャブラリーだけで深い人間愛が描かれている。「よるがきて まちがやみにしずみ/きみが きみじしんのただしさと/やりきれなさについてかんがえる/もしそんなひがきたらこのことを/もういちど おもいだしてほしい/たいようはたくさんある くらい/よるにそれは すがたをあらわす」と。最後の行に心打たれる。特記するべきは、行またがりがないので1行ずつ独立していて読みやすいということだ。これは作者の成熟したテクニックによる。
 もう1編、「誕生日を歌って」という作品も、ぐっと深い。死者と生者、いなくなってもいること、いないことが隣に存在すること、など常識で割り切れない生と死の様態が描かれている。平易な言葉は日常の中に転がっていてそれは使い慣れた道具なのだが、そればかりではなく、その人が日常の裂け目や日常の裏側を深く考えようと思ったときにはちゃんと役に立つ道具なのだと、夏野の優しい言葉たちは教えてくれる。「ぼくらは死んで、また、満ちてゆくのかな。約束された生なんかない。」「月も太陽も、全くしゃべらないな。」「雲の合間に夜が口をあけていた。黒。蝋燭を引っこ抜いたみたいな、さみしさだ。」「そして残された空席のために。どんなふうでもいい。歌って。」と、「ぼく」も「きみ」も現世の生はおそらく束の間の生であり、誰もが空席となるのだ。「いつのまにか遭難している」状態にもなる。だから、「うた」があるのだ。言葉ではなく、「うた」でしか表せない何か。夏野のこの作品は、その意味での「うた」になっている。
 全編平仮名では「くぐる」という作品も、短いながらも充実している。昔話風な語り口で、人が生きて死んで命をつないでいく、その日常が淡々と描かれている。「てのひらが とぐちをあけて/いえをくぐる」「くろいかわをわたって」「かわがそれを とざす」「よるにわかれて とおい ひの/みずが はしをくぐる」と、祖先を供養する盆祭りが背景となっていて、現前の生の輝きが「はなびをするとき てをふっている」と描かれる。人は見えない境目をくぐるように産まれ、くぐるように死ぬのだろう。
 2018年と2022年の夏野雨の詩集は、世界との違和感とその距離に落ち着かない、傷つきやすい人間たちを肯定し勇気づける、ポップでカラフルな印象だった。それに続く詩集『雲のからだ 海のからだ』では、存在論に近くなっているようだ。言葉が描いている世界の奥に、重層的に作者の心象風景が幾重にも重なっていて、詩集全体の視点が広がり深まっている。「緑の種類を数えることはできない」という作品では、山も海も人間の歩く道路も地下街の片隅も、"緑"で表わされる何か(=生命力?)のヴァリエーションで出来ている、と語られる。仏教で言うところの「山川草木悉皆成仏」、つまり見えないものを含めてすべての存在に仏性があるという言葉だが、これと同じ意味だろう。人生の年月を経て、生から死へと移行する存在の変化を体感し、柔らかい感性が育つのを見守り、夏野独特のヒューマニズムが濃くなっているようだ。
 現代詩と呼ばれる書法は、一般の読者からは難解だと思われている。が、夏野雨の詩は、初見でもわかりやすく、しみじみと人間と自分のことを考えさせられる詩だ。谷川俊太郎がそうであるように、夏野のこの詩集も、幅広く老若男女に読まれて欲しい。





ヤリタミサコ