「絶望の底のかすかな希望――モリマサ公『絶望していろ、バーカ』を読む」ヤリタミサコ

2023年06月21日

 数年前、モリマサ公が「絶望していろ、バーカ」という詩を朗読するのを聞いた。その瞬間、自分も同じフレーズを叫びたい思いが湧いてきて、詩の最後の「絶望していろ、バーカ」は一緒に声を出した。そして、誰に向かって投げつけた言葉なのだろうか、自分も含まれるのだよな、と、モリマサ公の朗読を聞いた後に少し考えた。モリマサ公の世界観は徹底しているな、と感じながら。
 この詩は、社会と個人の関わりの矛盾への怒りがテーマだと思われる。現代社会は自己責任として個人を突き放し、トライ&エラーの試行錯誤や回り道も許容されず、個人は心的外傷を持つとなかなか快復できない。社会の余裕のなさであり、個人から社会への不信でもある。コミュニケーションとディスコミュニケーションが不連続で不規則に共存し、曖昧な幸福感と不幸感と不全感が混じり合っている。「すっごい明確な曖昧さにしがみついている今。/からっぽのバスタブにひびくバラエティ番組の笑い声が果てしなく/限りないグレーな風景のなかを『俺たち』はどこまでも歩いてく。/『そこまでしあわせでないかんじ』がする支配。/『必要以上に絶望すること』によってねつ造されてく『傷』の存在。/とっても安全な痛み。」という叙述が、1回目と2回目の「絶望していろ、バーカ」の間にある。ここでの作者は、「とっても安全な痛み」に閉じこもって身動きしないバーカたちに対して、「記憶に明日は無い」と明言する。つまり、傷の記憶なんか過去のものじゃないか、明日の自分は未知だということだ。未来のことなど誰にもわからない。最後の「絶望していろ、バーカ」の前の3行は「『だれにも会いたくありません』/が画面にぽっつり表示されて。/『ぼくたち』はすでにコミュニケーションをはじめてしまう。」と、これらバーカたちの矛盾を指摘する。誰にも会いたくないと表明すること自体が、それをわかって欲しいというコミュニケーションだからだ。甘ったれ、でもある。でもその絶望から始まることもあるのだよ、と、書き手自身を含めた対象者に向かって表明している。
 心理的どん底からの再生は、「レター」という作品でも描かれている。「正直今日の日はえぐれるような一日だった」という状況下、「あたしは当分死なないという気持ちで1秒を数えてる。」し、「泣く余裕すらも無い。」ほど作者にとってつらい出来事が起こっている。そうだよね、そういう日、人生には何度か耐えがたい日があるよね、と共感して読み進むと、最後の開き直りのような強い言葉にハっとさせられる。「今泣いとける奴らは泣いておけ。/今泣いといても許される奴らは泣け。」と叱りつけているような言葉だ。中島みゆきの「ファイト!」という歌を連想する。そして、ページをめくった最後のページに「いくらでもさいごまでちゃんと泣け。」と強いダメ押しの1行がどーんと存在する。もちろん、これは作者自身が泣く余裕もないほどの自分を叱咤している言葉でもあるし、絶望の中途半端なところであきらめずに、どん底までちゃんと考えろという命令でもある。苦しさを紛らわせたり忘れたりすることは、後になってまた悪化したりこじれたりするものだ。逃げないで徹底して苦しむことが、そのときに必要なことなのだろう。モリマサ公は「さいごまでちゃんと泣け」と強いる。底を打ったらその後はマシのなるのかどうか、そんな保証はないのだが。
 モリマサ公の詩のワザには、驚くことが多々ある。この詩集でも「ノーアンサー不在の時代」という長い詩には驚いた。なぜならば、まず、現代詩ではこれほど長い詩が書かれることが少ないからだ。吉増剛造や野村喜和夫のような独自の境地を持つ詩人以外では、めったに見ない。見開き2ページから4ページ程度の分量の詩は、心の風景をスナップ写真のように切り取ればそれなりに仕上げられるが、6ページ以上となると、時間と空間とを移動して、複数の視点での記述が必要とある。独り言的な物言いだけでは成立できない。だから14ページという分量は、知的な意味での体力が必要だ。私はこの詩の速度とフレーズの切れ味に惚れ惚れしながら読んだ。「コトバたちの安全装置を外して/おろかさそのものがエネルギーだということ/自分を知ろうという力/他人にも存在するそれぞれの時間について考えていく」というような、ストレートな詩学。そして劇場型犯罪や愉快犯のような社会病理について「どれも被害者であり加害者にならないという事は無い/常に我々は被害者であり/加害者である」と語る。こういった抽象的で公的な物言いだけではなく、その間に挟まる「ソープでバイトして一回1万で一日10万かせぎましたが/一週間でやめました/毎日誰かが死ねばいいと思います/毎日誰かが生き返ると思います」という、卑近で猥雑で不格好な日常の語りが魅力的だ。悪意や敵意や嫉妬や反発や希死念慮などはいつだって自分の中にもやもやと存在しているから。そして、ボキャブラリーの幅も広いので、あっけにとられる。「プンクトゥム」「ストゥディゥム」「絶対零度」「メディアリテラシー」というような観念語が繰り出された後には、「コンテンポラリーもアンデパンダンも/パンダのように色あせている」と、それらを笑い飛ばす。詩にまとめはないが、あえてまとめてみると「我々は自分が正気でいられるのはほんの一瞬であることを知っている。/むしろ狂気に見えるその瞬間に身を投げることを知っている。」「なぜなら我々は今をリアルに演じようという切実な希望でもって立ち続けているのだから/決定的なものいいは今まさに明確な嘘だといえるのだから/日常を流し込む痛みのために論点がずれていく」「あたしの知っているセカイは壊れていくどんどんスピードをあげて/あたしは失われ続ける/それでもあたしは戦っている/それはコトバに似ている」と、アレン・ギンズバーグの「吠える」に共通するような、世界への絶望感とその底にかすかにある希望とを描いている。
 この詩集では使用されるボキャブラリーの多様さに圧倒されつつ、各詩の最終行の決めぜりふにマイッタと感じる。私の気に入ったラストラインを並べる。「中空のまるをなぞる」「あたしたちはまた乾いて揮発して空に戻ってしまう」「不在の時代」ときて、あとがきでは「そして宇宙にいって地球をみおろしながらサンドイッチ食べたいです」と終わる。モリマサ公さん、宇宙から「バーカ」と叫んでくださいね。





ヤリタミサコ