「誕生す、死す」村山トカレフ

2022年02月06日

 すべてはいま、この瞬間だから理解できる。
今際の際だからこそ、わたしにはわかる。

 はなの記憶は暗闇。目玉をどんなにぐりぐりと動かしてみても、見えたのは一面の黒。
つぎの記憶は眠気。眼前の黒の景色に飽くと必ずといっていいほど、わたしは強烈な眠気におそわれた。
なにかに包まれた絶対的な安心感のさなか、ぬくとさに時折りそよと感じる新鮮な空気の匂いが心地よかった。
 正体のわからない気配はずうっとしていたけれど、音や振動は皆無だった。
わたしはただひたすらに、黒の光と眠気の餌しかない安寧のセカイにいた。
いま思えばこのときがいちばん幸せだったのかもしれない。

 わたしは黒の光と眠気のセカイで揺曳していた。
変わったことといえば、正体のわからぬ気配が日増しに遠慮さを薄めてきたことだ。
黒の光と眠気の餌のさなかに気配が図々しくあがりこみ、否が応でもわたしにそれを感じさせるようになった。
 気配は無遠慮に、意図的に、力強く、生々しく、その存在を主張しはじめた。指呼の間にあることから、それはひとつやふたつではなく相当の数だとしれた。正体のわからぬ気配を感じたときわたしはいつもブルっとしたりザワっとしたけれど、だからといってそれは恐怖や怯えの類を引き連れてはこなかった。それどころか心奥では形容しがたい希望みたいものが、ちろちろと黒ではなく赤い種火となって確と存在していた。

 希望の赤い種火は日増しに勢いを強め、いつか必ず爆発する抗えない運命みたいものの導火線を懸命に燃やす炎へと変貌していた。この頃になると気配はもう気配ではなく存在といふ形影に成長しており、存在といふ姿形に言葉といふ影をひっつけていた。
 わたしは相も変わらず黒の光のなかで眠気の餌を貪ってはいたが、だんだんと餌を貪る時間が短くなっていき、黒の光をじっとみつめて覚醒している時間が長くなっていた。それは気配のほうでも一緒らしく、日増しに彼奴らのほき出す存在といふ言葉が意味のあるものに感ぜられるやうになった。それはたいてい急いたやうな、恐れているやうな、あきらめのやうな、悲しみのやうな、よろこびのやうな、雌伏の時を待つやうな、種々入り混じったなんとも言い難い感情だったが、わたしは彼奴らと一緒の空間にいることがうれしくもあり心強くもあった。

 それは突然にやってきた。
正確にいふならばやってきたのではなく、はなからの決まりごとを実行するかのやうに、なにかの命令にそって、なにかの摂理にしたがって、時間がきたからそうしたかのやうに、淡々でいて豪放かつ鷹揚にそれは決まりごとを実行した。
 わたしはその決まりごとに身をゆだねた。なぜそうしたのかはいまでもわからないが、身をゆだねたことは無謬の判断だったと思っている。はなの暗闇の記憶を感じたときからいったいにどれくらいの時間が経ったのだろう。途方もなく長いとも感ぜられたし、なんだもう終わりかとも感ぜられた。
 あの導火線を燃やし続けた炎が役目を終えたとき、黒の光と眠気の餌と稠密な彼奴らのはざまでそれは唐突に爆ぜた――正確にいふならば爆ぜたといふよりわたしと彼奴らで爆ぜさせたやうな気もする。空間が震え黒の光が揺れたほどの轟音だった。
 バリバリ、メリメリと音をたててから数瞬のちに黒の光を奪い取り、黒ではない光――白の光をわたしに与えた。
暴力的ともいえる凄まじい空気の匂いがわたしを襲来した。刹那、そうすることが当たり前かのやうにわたしは動いた。
目玉を、腕を、足を、体を、懸命になりふりかまわず動かした。
 白の光が彼奴らをわたしの目玉に映してくれた。わたしは彼奴らを見てなあんだと思った。思ったとおりだとも思った。
彼奴らはわたしだったのだ。わたしと同じ姿形をしているわたしたちだった。わたしたちを見たわたしはがぜん横溢となり、よおしと脳裡で思って実際によおしと言葉をほき出して目玉を、腕を、足を、体を、さらに懸命になりふりかまわず、たくさんのわたしたちと同じやうに動かした。

 白の光のセカイは広かった。途轍もなく大きかった。
わたしと同じわたしたちは時間が経つにつれてだんだんといなくなってしまった。なぜなのかはわからないが、それも決まりごとのやうな気もした。でも、わたしはいなくなりたくはなかった。なによりも常に湧きあがる使命感みたいものに突き動かされていた。緑々と繁茂した草の匂やかさを、ふくふくと腹に吸い込みながら、わたしは目玉を、腕を、足を、体を、懸命に動かしてとにかく歩いた。するうち腹が空くといふ新しい感覚がわたしを貫いた。
 なんのためにそうなっているのか、わたしの両腕は素早く収斂することができた。加えて自分でも身がすくむほどの鋭い刺がいくつもついてさえいた。
わたしの両腕はなにかを捕らえるやうになっていたのだ。わたしはあるときこの素早く収斂する刺のついた両腕で、わたしたち以外の気配を捕らえてみた。見たこともないそれは奇怪な形をしていたが、これも決まりごと なのだと瞬時にわたしは理解した。わたしはその気配を口に運び咀嚼して飲み込んだ。うまかった。途轍もなくうまかった。
 気力があふれ力が湧いた。わたしは白の光のなかで目玉を、腕を、足を、体を、懸命に動かして歩き、わたしたち以外の気配 を捕らえては喰らふことを繰り返した。広くて途轍もない大きさの白の光の世界で生きていることが、わたしはとても誇らしかった。この感情だけは決まりごととは別のやうな気がした。

 白の光のセカイでも時間が経つとかならず黒の光がわたしを包んだ。
それはいっときのことだったけれど、決まってわたしはひどく懐かしい昔日のあの黒の光のときのことを思い出し、郷愁めいたものを胸に抱き、草葉の裏や樹上で眠った。これはとても心地よかった。そんなふうに生きていたわたしは、たまさか全身を激しく蠕動させる決まりごとの襲来をうけるたびに体を大きくしながら、白の光のときは喰らい、黒の光のときは眠った。わたしは誠実に、愚直に、揺るがずに、それのみに邁進した。
 そして、いったいにどれくらいの時間が経ったときのことだろう。白の光をはじめて見たときから、途方もない長い時間が過ぎたとも感ぜられ、なんだもう終わりかとも感ぜられたときにわたしは、久々に彼奴らをそう、わたしを見た。わたしは久しく見ないうちにわたしと同じやうに大きくはなってはいたが、やはりわたしと同じ姿形をしていた。その後、わたしはわたしを頻繁に見るやうになった。わたしはわたしを見たときには決まってひどく興奮した。なぜだかはわからないが、これも決まりごとだと思った。

 ある日の白の光が黒の光へと移り変わる頃合いに、わたしはわたしに襲われた。まったく気づかなかった。迂闊だと思ったが、すぐとこれも決まりごとなんだと理解できた。
 わたしはわたしに身をゆだねた。暫時、わたしの後ろのわたしは、おそらくは決まりごとを実行していたのだろう、なにやらしきりに動いたりじっとしたりを繰り返したのち、わたしから離れようとした。刹那、わたしは素早く収斂する両腕でわたしを捕らえた。これまでわたしは、わたし以外の気配しか喰らってこなかったが、いまこの瞬間に限ってはわたしはわたしを喰らふことが使命に感ぜられた。そうだこれも決まりごとなんだ。

 わたしはわたしたちを残すことができた。
目玉しか動かせないわたしは草葉に横たわっていた。わたしにはわかる。わたしの畢生が終わろうとしていることを。
強く、立派に、懸命に、これまでよく生きてきたのだと自分でそう思った。それももう終わる。
 わたしは、目玉を、腕を、足を、体を、懸命になりふりかまわず動かしていたときを思い出していた。
白の光――否、寂光がわたしを照らしていた。唯一動く目玉のみをぐりぐりと動かしてわたしはそれを照覧したが、すぐとそれは、はなの暗闇に転じて黒の光がわたしを包んだ。
 わたしは新たな旅路につくのだと思った。死出の門出。しかし、ぜんぜん、ちっとも怖くはなかった。
だからわたしは、よおしと脳裡で思って実際によおしと言葉をほき出して目玉のみをぐりぐり動かした。
そして黒の光が消えた。


そう、これも決まりごとなのだ。







村山トカレフ