「雨は、神さまのおっぱい(3)」荒木田慧

2023年09月02日

蛇と鳥。
月と太陽。

神話は詩だよ、とイサムは言う。

台湾の街では、通りの至るところに道教の神さまを祀る廟(びょう。やしろのこと。)を見かける。日本の寺や神社のように大きな廟ももちろんあるが、台湾の廟に特徴的なのはその場所と数だ。ふつうの雑居ビルの一階のひと部屋に、店子のように廟が入っている。まるで神さまのコンビニエンス・ストアではないか。

アパートから出た通り、スーパーの向かいに建つ雑居ビルにも小さな廟が入っていた。扉は開かれていて、誰もが自由に出入りできる。覗くと「金母」の文字があり、祭壇に祀られている像は女の神さまのようだ。道教には神さまがたくさんいるが、台湾で最も愛されているのは「媽祖(まそ)」という女神だという。この神さまも媽祖なのだろうか。

廟には小柄なおばさんがいて、日本から来たと言うと、どこかに電話をかけ始めた。どうやら誰かを呼び出しているらしい。しばらくすると、人の良さそうなおじさんがやってきた。「コンニチワ」と片言の日本語で挨拶をしてくれたが、あとは思い出せない、と笑った。

「父は日本語が喋れたんだけどね」

台湾は1945年まで、50年のあいだ日本の統治下にあった。日本の敗戦後、代わりに中国からやってきた国民政府を皮肉って、当時の台湾では「犬が去って豚が来た」という言葉が流行ったらしい。「日本人はうるさくても番犬にはなったが、中国人は食うだけで何もしない」という意味だ。それなら犬のほうがマシだろう。相対的に、台湾の人びとは日本人に好感情を持っているようだ。

「ニホンジン、イチバン」

日本の家電は壊れにくい、と彼らは言うが、最近はそうでもない、と私は首を振る。

前の歩道にはテーブルと椅子が並んでいる。おじさんは私とイサムに席をすすめ、コンロのやかんでお茶を淹れてくれた。近所の人たちが次々やってきては、お茶を飲みながら世間話に花を咲かせている。おじさんはイサムにタバコをすすめ、イサムは大喜びでそれを咥える。神さまの目の前でスパスパとタバコを吹かすなど、バチが当たりそうな気がするが。イサムが中国語でそう聞くと、「道教にやってはいけないことはないのさ」とおじさんは答えた。

火曜日、路線バスを乗り継いで「大甲鎮瀾宮」という廟を訪れた。台湾道教の廟は目が眩むほど鮮やかだ。朱色を基調に金、緑、青など極彩色で彩られたその外観は、燃えあがる炎と舞い散る火の粉を思わせる。屋根の天辺で所狭しと躍動する龍と神々。細部まで入念に作り込まれた装飾はフラクタルで、もはや正気の沙汰ではない。

その入り口で、さっそく私とイサムは立ち止まった。廟の門を守る、大きなひと組の狛犬。その尻の側に回って下半身をよく見ると、それぞれきちんと性器が付いている。廟から見て右がメスで、左はオスだった。イサムによると、古来より世界では、右が女性、左が男性を示すらしい。

「あらゆることには意味があるんだ」

廟に入ると「天上聖母」の文字がある。これは媽祖の別名だ。中は人で賑わっていた。丈の長い線香を両手に掲げ、みな真剣な面持ちで女神に祈りを捧げている。香炉のけむりが天井をたゆたう。

ふと、どこかから太鼓とラッパの音色が聞こえてきた。いったい何が始まるのだろう。表へ出ると、男たちの奏でる音楽に合わせて、4人の男神が踊るように現れた。神輿の上には女神像が乗っている。神輿は音楽に合わせ前後左右に蛇行しながら進み、丁重に廟内へと納められた。すると1人の男が正面へ進み出て、手にした縄を地面へ叩きつけた。縄の上部には、蛇の頭をかたどった木の飾りが付いている。蛇が鎌首を持ち上げ、女神に三礼をして入廟の儀式は終わった。

「蛇は女性で、神さまを示すんだよ。蛇は古語でカカ。カカはお母さんなんだ」

そういつもイサムから聞かされていたが、何気なく訪れたこの廟で、まさか蛇と女神に出会えるとは。蛇を持っていた男に声をかけ、木製の頭部を見せてもらった。蛇の額には、陰陽五行の八卦のしるしがあった。

ここのところ、街の古本屋の洋書コーナーで見つけた小説を読んでいた。99年の映画「ファイト・クラブ」の原作だ。エドワード・ノートン主演、ブラッド・ピットが出ているやつ。

主人公は日々に閉塞感を抱くサラリーマン。破天荒な男タイラーと出会ったことから、男たちが素手で殴り合うための地下クラブを主催するようになる。平凡だった日常は少しずつ崩れはじめ、男たちの行動はやがて文明を破壊するテロ行為へと激化してゆく。

物語のなかで、主人公はファイトクラブに集まる男たちのことを「女によって育てられた、父親を知らない世代」と表現している。

「もしお前が男で、アメリカに住むキリスト教徒だったなら、父親が神の見本となる。それでもしお前が父親を全然知らず、父親は逃げたか死んだか、家に寄り付かなかったとしたら、神についていったい何を信じたらいいというんだろう?」

「お前は生涯を、父親と神を探し回って終えるだろう。神がお前を好かないどころか、嫌う可能性だってある。それだって無関心よりはマシだ。神にとって最悪の敵か、無であるか。それならどちらを選ぶか?地獄か、無か?」

そうして物語は近代文明へのテロ行為へと舵を切るのである。「ファイト・クラブ」は現代社会の本質を暴いた作品として、当時のアメリカで社会現象を巻き起こした。発表から20年以上経った現在、アメリカの状況はどうだろう。

「神は父である」とするキリスト教では、蛇はイヴに知恵の実を食べるようそそのかした、邪悪な生き物として描かれている。蛇にそそのかされたイヴ=女性は、アダム=男性よりも劣等である。

「神は母である」

このイサムの直観が正しいなら、近代文明の閉塞を打ち破るのは、テロよりも蛇なのではないか。そう私は考えている。



(続く)





荒木田慧