「T-theaterのこと 第二部 活動前期(1)」奥主榮

2023年04月18日

一 本格始動の前に

 僕はもともと、集団での行動というのが苦手な人間である。子どもの頃から、運動会の入場行進の練習をさせられると、右手と右足を同時に前に出すような、そんなしょうもない輩である。また、僕が考えている舞台美術や音響、音楽、照明もつくりこんだ朗読を中心とした舞台をやる以上、それなりの出費があることは覚悟していた。入場料をいただいた上での公演とすることも前提であった。

 T-theaterを本格的に始動させるにあたって、僕は、こんなことを他の参加者に伝えた。第0回公演の前か後かは覚えていない。「みんなで力を合わせて何かやったといった達成感に酔い痴れないでください。それは、お金を払った上に、足を運んでくださった方々に失礼です。わざわざいらしていただいた方々に、自分が何を見せたいのかを第一に考えてください。」
 身勝手に自分が主催した団体の参加者にこんなことを言うぐらい傲慢なことはないであろう。カルト教団の教祖が、「この集団への参加はあくまでもあなたの自己責任です」と言い放つようなものである。(自分を信じるように求める教祖というのは定番なのだけれど、ある意味組織自体を疑えと言うような教祖というのは、そもそも破綻した存在である。)

 また、こんなこともしばしば口にした。「客の感情を誘導するな。」
 僕は、「涙腺崩壊」といった言辞が、大嫌いなのである。みんなが同じ感情を煽られ、同じ方向に感情を導かれる。そんな表現活動の行き着く果ては、戦争でしかないではないかと。
 そう、主張し続けた。
 これは、大切な点なので、少し詳しく書いていく。

 つい最近、かつての参加メンバーであった紀ノ川つかさと会ったときに、「もしもT-theaterが再開しても、もう参加することはないと思います」と言われた。「僕の朗読は、観客を誘導することそのものであり、それはT-theaterで奥主が言っていたことと反すると思います」ということであった。しかし、実は僕自身の指示した作品が第0回公演から、観客を誘導していたのである。前回の原稿の最後に書いたように、僕が原案を考え、参加者のちゃーがまとめた「川の物語」は、観客を感動させるという最大の誘導を行っているのである。これは、明確に「客の感情を誘導するな」という言葉と反している。

 つらつらと書いていこう。
 僕が、雑誌連載されていたときから好きだった漫画に「この世界の片隅に」という作品がある。漫画作品としても高い評価を得たが、片淵須直監督によりアニメ化されたことにより、さらに人口に膾炙した。僕は、原作者である、こうの史代の昔からのファンである。私家版として出された小冊子もこっそり所持しているぐらいである。ただ、アニメがヒットし、増補版のような作品までが発表されたときに、三留まゆみと話していて、「この世界の片隅に」という作品が、とてつもなく危険な側面を持っているという話をしたのを覚えている。僕も三留も、作品自体のクオリティの高さを理解した上で、同時に作品が抱える陥穽について話したのである。また、おそらくは原作者のこうの自身が、質の高い作品を描くことの危険さを自覚しているということについても話した。
 こうのの出世作である「夕凪の街 桜の国」は、作者の郷里である広島を舞台にした作品を依頼されたことがきっかけで描かれている。単純に郷里を素材にした漫画を依頼されたと思っていたこうのは、それがむしろカタカナ表記の「ヒロシマ」という意味合いであったことを知る。自分自身の体験ではない被爆をどのように描けば良いのか、その葛藤の結果が「夕凪の街 桜の国」である。大変な傑作である。
 「ちいさいモモちゃん」や「二人のイーダ」などの作品で知られる児童図書の作家である松谷みよ子は、お子さんとの会話の中で戦争体験を類型的にしか語っていなかったことに気がつき、もっとリアルな実感に基づいた「戦争民話」の収集に努めるようになる。そこでは、イデオロギーとも政治とも無縁な、ただ生々しい実体験としての戦争についての記述が集められていく。(松谷の現代民話の仕事については、説明していくと長くなるのだけど、父母の体験が子どもに語られるものを口承民話の一環として収集したものが「現代民話」と呼ばれている。その中で、大きな割合を占めているのが戦争に関するものであり、戦争民話としてまとめられている。)
 こうのの作品は、松谷の作品と同じように、戦争体験のない受け手にも戦争を実感させる効果を持っている。「夕凪の街」は、おそらくヒロシマということを全く知らない読者へも、心を揺さぶるだけの力を持っている。ただ、些細な部分で大きな差がある。
 戦争民話の一篇にこんな話がある。海軍の一人の下級兵卒が、撃沈された船から逃れる。海面に漂っていた板切れにすがりつく。同じ板切れにすがりついてきた上官がいる。二人の体重は支えきれない木端。「お前はずいぶん、俺をいじめてきたじゃないか」と言うと、「そういえば、そうだったなぁ」と手を離し、そのまま沈んでいく上官。ただそれだけの話であり、細かい説明はない。けれど、だからこそ、いろいろと考えさせられるのである。どんな感情が二人の中を去来していったのか。ここには、物語を伝える媒体としての語り手の思いの介在する余地はない。
 けれど、こうのの作品には、実体験ではないヒロシマをどのように描くかの葛藤があったからこそ、情緒という問題が入り込んでくるのである。優れた作家が、自分の感性を研ぎ澄まし、これまでにない視点によって、今まで誰もが意識していなかった視点から何かを描くとき、受け手の感性を刺激する形で描かざるを得ないのは当然である。
 しかし、世界には、情緒で片づけてはならない問題というのも存在する。
 たとえば戦争反対の意思表明として、しばしば用いられる「子供たちの平和な未来を保証するために戦争は許してはならない」という言辞。この言い回しは、そのまま「子供たちの平和な未来を保障するために戦争をしなければならない」という言辞に置換することが可能である。「受け手の心に訴えかける」表現は、そうした危険性を伴っている。

 さらに、つらつらと。
 先日、JR八王子駅南口のギャラリー・カフェ「coffee ritmos」で、こんな会話があった。この店は、ときどき初対面の客同士で会話が生まれる場所なのである。
 偶然出会った、初対面の方が、美術を初めとする表現の、プロパガンダ性について話された。僕は、仕事に行く時間が迫っていたので、余り長くは話せなかった。印象的だったのは、そうした表現活動の危険性について話されていたことである。僕よりはもっと広い視点から、そもそも宗教に基づいた絵画や音楽という欧米の伝統的な芸術表現が、高揚や帰依を前提にしたものであるといった指摘であった。短い時間ではあるけれど、いろいろと触発されることがあった。(こうした、見知らぬ方との交流ができる場所は、とても貴重なので、興味があれば足を運んでいただければと思います。)
 このとき、とても面白いなという話を聞かされた。エミール・ノルデという絵画作家のことである。
 ナチス台頭下のドイツで、ナチスの思想に共感しながら、ナチスからは「指弾されるべき退廃芸術の作家」として扱われたという。
 僕は、何となく作家のセリーヌを思い出していた。

 人が、「自分がこうありたい」と思う姿と、「こうでしかありませんでした」という、そのギャップ。
 けれど、そうした自己矛盾の中でこそ、表現者は自分が何を為すべきかにたどり着けるのではないかと、そんなことも考えていた。
 昔、橋本治の文章の中で、個人が抱え込む自己矛盾を作家が克服することの意味について述べられていた記憶がある。

 人は、自分の中に矛盾を抱え込むからこそ、何かを描き続けるものではないかなと思っている。
2023年 4月 4日





奥主榮