「T-theaterのこと 第二部 活動前期(2)」奥主榮

2023年04月27日

二 第一回公演で

 第一回公演は、「ある夜の出来事」というタイトルにした。フランク・キャプラ監督による古い映画のタイトルを流用している。(原典は、「或る夜の出来事」。)
 参加者の方々が描かれた詩を、一つのプレートの上で対等に並べていくという主旨。この回では、「ある地域で一晩のうちに起こったこと」という設定で、個々の作品をまとめていくことにした。
 もしも、真昼間の詩を描いてくる方がおられても、何とか統合してやるぞ、といったぐらいの気持ちもあった。

 実は、この頃から僕の立場は微妙なものになっていた。
 舞台全体を統括する立場の人間は、舞台に出るべきではないという意見があったのである。至極まっとうな意見である。僕だって、自分がしゃしゃり出るのは嫌だ。しかし、僕も舞台に上がらざるを得ない状態が第0回公演でも、第一回公演でも生じていた。第一回では、インカムで照明や音響に指示を出しながら、いきなり着替えて走り回るという醜態もさらした。
 一方で、僕は、何というか、集団の主催みたいな、マネージメントを兼ねたような活動は向かない人間だった。
 また、第0回公演に参加したメンバーの一人であった片野晃司が、パソコン通信上で新しく「現代詩フォーラム」を立ち上げた。その際に、T-theaterのメンバーを勧誘した。影響は現れるだろうなと思った。実際、初期メンバーの稼働力は奪われた。また、片野自身は、第一回公演には参加していない。
 この公演で僕は、大村のパフォーマンスの途中、一升瓶を抱えて客席に乱入し、舞台に上がり込んで朗読を始めるという演出も行った。また、この公演でも終演後に最後に朗読された「うちにかえろう」(奥主榮・田代深子の共作)という作品を聞いて涙を流されたお客様がいらしたという話も聞いた。観客の感情を誘導したくないという僕の意図とは別に、心を動かされる方が二回の公演で続いて現れたのである。このことは、この連載を通してのテーマとしたい。

 「ある夜の出来事」では、実現できなかった企画が二つあった。
 第一は、僕が発案したこんな物語である。散文ではなく、連作の詩作品としてまとめるつもりであった。
 夏休みに入ったとき、十代の子たちが自分たちの住む街では満点の星空を見たことがないという会話をする。それがきっかけになり、変電所を襲撃して一時的に電気を遮断して灯火を消し、星空を取りもどそうとする。(医療施設等への影響は予め調べた上で計画を実行に移す。)
 この作品で僕が描いてみたかったのは、自分たちの夢が実現したときに、子どもたちが何を感じるのかであった。設定は僕がした。ただ、結論は集団作業としてみんなで考えたいと思っていた。僕は既に三十代半ばを過ぎる頃で、若い世代の気持ちなどは描き得ないと思っていた。あれこれ議論を重ねて、どんな結末になるのかを楽しみにしていた。
 しかし、この構想は一回の公演の中で扱うには大きすぎる内容であった。参加者から試作品が数篇提出されたが、結局実際の舞台からは割愛した。おそらく、それだけで一回の舞台になるぐらいの内容であった。さらにこの企画は、参加者が勝手に描いた作品を一つのプレートの上で統合していくという、T-theaterの主旨からは外れるものであった。これらについては、舞台集団自体の存在意義と、自分の作家性を混同した僕の判断ミスだと、今では思っている。
 作家が集団作業を行うとき、自分の我と集団で創作活動を行うことの意味を、常に自分自身に問い続けなければならないのだと、そう痛感した。

 もう一つ、実現できなかったことについては、深刻な問題を含んでいる。
 僕は、小学校三年生のときに同性からの性暴力の被害を受けた。そして、その記憶を十年ぐらいの間、失った。このことは自分の書籍の中でも隠さずに書いてきた。そうした理由から性暴力というのは、僕の中ではとても重要なテーマの一つである。
 こんな作品と、その演出を考えたのである。
 性暴力の加害者の、身勝手で独りよがりな言い分を作品化する。いわく「第三者には理解できないけれど、僕と被害女性との間には純粋な魂の結びつきがあった」。いわく「あなた達は汚れているから、僕らの崇高な結びつきについて理解できない」。そうしたモノローグの詩を、僕は描いた。そして、それを次のような形で演出しようとした。
 この作品の朗読を行うのは、被害にあった直後の姿を連想させる女性とする。裂かれた衣装、乱れた髪には枯れ葉が貼り付いている。朗読している彼女の横で、性暴力に抵抗するときに口にしたらしい言葉を、加害者と思われる男が、小馬鹿にするような不快な調子で読み上げる。
 すごく厭な演出である。けれど、僕にはそれ以外の表現方法は有りえなかった。
 参加者からの猛反対を受けた。暴力的で、生々しすぎる。そんなシークエンスが登場する舞台には参加したくない。結局、僕の原稿は、他の参加メンバーによって非常に高踏的で文学的なものに書き直され、僕の演出案はボツになった。後年になって、書き直しをした参加者が、結局最初の原稿の方が良かったという話をしているということを、間接的に耳にした。
 僕は、作品世界で描かれるものがどれだけ絶望的であろうが、作品が描かれることそのものが一つの希望であると思っている。自分自身が、そうした切実なものに耳をふさぐ人間ではありたくないものと考えている。
 しかし、作品はときに、作者の意図とは別に暴力性を帯びてしまう。
 T-theaterの解散後、僕が自分の朗読会をするようになった後で、こんなことがあった。のちに「白くてやわらかいもの.をつくる工場」という詩集(モノクローム・プロジェクト、らんか社刊)にまとめられる内容の原型ができた朗読会である。(現在、僕の朗読会は、新作描き下ろしを中心にしたものと、過去作の朗読に主眼を置いたものに二分される。そうした企画スタイルの確立のきっかけになった会であった。) ステージの途中で、会場から二名の方が逃げ出したのである。途中で朗読した作品の暴力性に耐えられなかったのである。ステージ全体の構成としては、その作品を転回点として絶望からの救済が描かれ、最終的には希望を描いて終わるはずであったが、一作、余りに救いのない作品を朗読したのである。後日、逃げ出した方の一人からは「何故ああした作品を朗読したのか」という問い合わせがSNS上であった。僕は先述の「どんな絶望的な内容の作品であろうと、作品が描かれることは希望である」と返答したが、おそらく相手の方に納得していただくことはできなかったと思う。僕には、今流の言い方で表せば「黒奥主」とでもレッテルを貼れそうな一連の作品がある。
 余談になるのだけれど、そうした作品を僕は別にことさらにダークなものとして描いている訳ではない。僕が生きてきた時代の中では、ダークな作品というのは普通に子ども向けに描かれていたのである。岩波少年文庫の「水滸伝」では、敵役は「真っ向唐竹割り」に倒され、「肉饅頭」にして食われていたのである。(この辺りは、原典を忠実に訳している。) 小学生の頃の漫画雑誌は、「大学生が漫画を読むようになった」という話題に浮かれて、今なら炎上しそうな内容の作品が満載であった。特に少年マガジンは劇画作家を多用し、凄まじい内容の作品を掲載していた。例えば辰巳ヨシヒロの「東京姥捨山考」。貧しい工員が、介護の必要がある母親の世話に嫌気がさして、恋人と一緒に母を置き去りにして旅行に行こうとする話である。しかし、良心の仮借から逃れられず、狭い木造アパートに戻る。もともと具合が悪かった母は、息絶えている。
 小学生には、かなり怖かった。「姥捨山」という言葉の意味を母親に尋ね、僕はけして置き去りになどしないと訴えた。ただ、「トラウマ・漫画」なんて言い方では括りたくない。何かを考えるきっかけになった作品だと思っている。他にも、山上たつひこの「光る風」など、小学生には重いテーマの作品であった。
 しかし、高年齢を意識し過ぎた反動から、少年漫画雑誌は急速に低年齢対象に編集方針を切り替える。中学に入る頃、僕は一度漫画に興味を失った。高校に入ってからまた、漫画を読むようになった。きっかけは、高校に入って最初の中間考査で学校が早く終わり、帰りに本屋に入ったら偶然目の前に小学校低学年の頃に読んだ漫画が置かれていたことであった。(自分でも、定期考査中に書店で漫画を買うなよと思う。) このとき手に入れたのが、石森章太郎(後に石ノ森章太郎と改名)の「ミュータントサブ」であった。何となく購入して読んでみたら、子どもの頃には理解しきれなかったいろいろなことが分かった。もっとも感動したのは、作品を描く上で作者である大人が子どもに対して行っていた配慮の数々であった。それがきっかけで、また漫画を読みはじめた。
 ただし、古い漫画の単行本が中心であった。かつての少年漫画誌は対象年齢を引き下げてしまっていて、あれば読むけれど、何となく物足りなかった。そんなときに出会ったのが、「ガロ」という雑誌であった。誌名だけは、以前から知っていた。
 この雑誌に関しては誤解があるのだけれど、もともとは児童漫画誌として創刊されている。ただ、主要な作家が大手の出版社へと舞台を移していく中で、執筆陣が変化していく。また、才能のある新人を発掘したいという初期からの方針もあった。僕が読みはじめたのは、作家の世代交代が進行しつつあった1970年代半ばであった。貸本漫画時代からの作家である永島慎二の連載が連載されている一方で、蛭子能収が新人として作品を発表し始めていた。やがて、根本敬、山田花子、丸尾末広、山野一、ねこぢるといった作家が作品を毎月発表していくようになる。
 十代から三十代にかけて、僕はこうした作家の作品を普通に読んでいた。山田花子の作品は、いじめられる側であった僕の心を不快感とともに癒してくれた。デビュー当時の蛭子能収の作品は、非現実の展開を奇妙なリアリティで描きだしていた。過激なように見える根本敬の作品からは、何かひりひりするような痛みを感じた。何人かの作家の自死に、衝撃を受けた。ガロに限らないが、この時期に出会った作品群を僕はけしてダークなものとも露悪的なものとも思っていない。誰かが描きつづけなければならない作品群だと思っている。そして、こうした作品によって救われる読者も一定層存在するのである。
 話が舞台のことから逸れてしまったが、僕は現在は受け手にとっての暴力性が前面に押し出る表現は無意識に避けている。そのことの善し悪しについて、考えることもある。けして、結論は出ないのである。

 第一回公演は、代々木上原に古賀政男音楽博物館の中のけやきホールで行った。照明については、専門のスタッフの方々に依頼した。設備が整ったホールで、素人には扱い兼ねたのである。美術の担当者は、ステージ上に巨大な氷塊を置いた。時間経過とともに少しずつ融けていき、丁寧につくられた照明の色彩の中で輝いていた。
2023年 4月 19日





奥主榮