「T-theaterのこと 第二部 活動前期(3)」奥主榮

2023年05月28日

 三 破綻した公演

 人間とは愚かなもので、自分が手がけたことが大がかりになっていくと、夜郎自大な意識に捕らわれていく。T-theaterの第二回公演「記憶の森の物語」は、そうした僕の思い上がりから破綻した公演になった。
 この回のタイトルは、僕が若い頃から書こうと思っていた童話に由来する。ドイツの古い話に「影を亡くした男」(岩波文庫)という作品がある。自分の影を悪魔に売り払うことで富を得る男の物語である。そんな話を読んでいた影響からか僕はいつか、こんなメルヘンを描きたいと思っていた。自分の記憶を売り渡した男の物語である。そうして成功して、老いた彼には、もう財産など必要ない。売り渡した自分の記憶を取りもどそうとしている。誰か(複数の人間でも良い)が、千の記憶を彼に捧げれば、彼は記憶を取り戻すことが出来る。一冊の本の冒頭に、こうした設定の物語を配置する。その短編集の後に収録された物語は、全て彼に捧げられたさまざまな記憶である。ずっと書こうと思っていた、そんな童話集のアイデァをそのまま流用した。
 取り戻そうとしている記憶の欠片を、個々の詩作品として扱う。悪霊に売り渡した記憶を取り戻そうとしている人間を狂言回しにして、詩の朗読をつないでいく。しかし、結果としてこれは物語性が強くなりすぎた。舞台を実際に見た方からも「どういうストーリーか分からなかった」という感想が寄せられた。
 それは僕の舞台編集者としての失敗でしかない。しかし、それ以上の失敗を僕はこの舞台でしている。一言で表せば、規模を広げ過ぎ、責任を取りきれない舞台になってしまったのだ。これらの事態に関して、僕から何かを発言すれば、言い訳にしかならない。

 「記憶の森の物語」はネット上の詩のフォーラム(あるいは現代詩フォーラムであったか、記憶が定かではない)で出会った、関東の参加者と関西の参加者がそれぞれ練り上げた舞台を、当日になって統合するという形になった。ネットでのやり取りを可能な限り活かそうと思った。成功していれば、ネットを利用した舞台づくりという先駆的な試みとなったかもしれない。しかし、僕自身が関東と関西のスタッフを分裂させてしまったのである。その結果、数多くの禍根が残った。
 どれだけ謝罪しても済まされないことというものがあると思う。この公演についての僕の文章の中に、歯切れが悪い部分があれば、それは僕自身のそうした至らなさの結果である。

 さまざまな問題があった。その第一の要因は、関東と関西で同時に企画を進めて融合できるという安直な発想にあったと思う。舞台表現というのは、それほど軽いものではない。それでも、この公演が実現したのは、関西側のスタッフの多くが舞台人としての責任感を抱いていてくれたからである。

 正直に書いてしまえば、トラブルの全ては僕が思いあがったことにある。一番書きたくないくだりである。これについては、今のコンプライアンスからは、告発を受けてもしょうがない状態であったと考えている。僕の人生の汚点である。
 僕は、まだ入籍していなかった今の妻との交際を続けながら、参加者の女性と関係をもっていた。僕は、下半身に大脳があると指摘されてもしょうがないような人間であった。三十代の、一番性欲が盛んな時期のことである。(十代の頃に読んだ山頭火についての評伝の中で、男性の性欲が最も盛んになるのは三十代であるという指摘があった。実際、六十代になった今はそれを実感している。)
 そうした中で最も大きなぎくしゃくは、関東と関西で準備した舞台が、齟齬をきたしてしまったことである。何か不調和なものが生じながら、僕はそれらを統合することができなかった。どこが不調和なのか、当時の僕は理解できなかったが、何かあちこちがちぐはぐな感じになっていったのである。今なら分かる。参加者のそれぞれが、深い思いを込めて舞台に参加することを決めた。その結果、個々の作品が僕がこの回の公演で設定した「作品を乗せるための受け皿」をはみ出してしまったのである。僕が本当にしなければいけなかったのは、作品をどういう流れの中で生かしていくかという、全体の流れの見直しだったのである。
 さらに、参加者の一人が、美術担当の方が舞台美術案を提出した後に、こんなことを言ってしまった。「なんか、この舞台美術案、学校の課題提出みたいね」。指摘したのは、ご自身が非常に優れた美術作品を制作される方であった。言ったのが誰であろうと、こんなことを言われたら、僕だって自分の案を見直す。
 最初に提出された、舞台上にオブジェを構築するという案は取りやめになり、会場全体の天井に、夥しい食パンを吊るすというものに変更になった。ただ、僕はそういう滅茶苦茶さが好きなので、OKをだしてしまった、多分、まともな主催者ではない。個人的には、このアイデアは成功したと思っている。結果的に、朗読されるテキストと密接な関連をもった舞台美術から、詩の朗読を開放してくれたと、今でも思っている。それに伴って、夥しい釘の刺さった椅子とか、心療内科の待合室に置かれているようなパーティションとかが小道具として置かれた。
 ただ、この美術案の変更は、メルヘン的な設定とは不協和音を奏でていた。

 公演そのものに対する評価は、けして悪いものではなかった。ただ、そうした中で、先述のようにストーリーが分かりにくいという意見の他に、舞台をマニアックで難解な(ある意味小難しい)作品と受け止めたものがあった。
 それは、僕がT-theaterという舞台を始めた意義からは離反するものであった。僕は、詩を楽しい娯楽として楽しめる舞台にしたかった。
 六田登という漫画家がいる。代表作に「F」という作品がある。物語の冒頭、ロード・レースに熱中している主人公について、走ることがなければ強姦魔にでもなるしかなかった、という説明が入る。石井聰亙(改名して、今は石井岳龍)という映画監督がいる。かつて、自分を金属バットを振るうような誘惑から守ってくれたのは映画であったという発言をしている。
 僕は、表現は誰かを救済するものだと思っている。僕自身もまた、女性関係のだらしなさという、告発されてもやむを得ない要素を抱えた人間であった。だからこそ、そうした人間の危うさというものをどうにかしてくれるシロモノとしての「詩の朗読」を、「ああ、こういうものがあって、本当に良かった」と思ってほしかったのである。
 そうした意味でも、この公演は破綻していた。

 ただ、この公演で野本京子という方の作品を披露できたことは、とても良かったと思っている。(詩人の野木京子とは全くの別人。) 野本とも、ネット上での現代詩フォーラムで出会った。
 野本は、他の参加者と同じく、優れた詩人であった。この公演にいらしていただいた、当時詩誌「詩学」の編集長であった寺西幹仁が、後日、野本の連絡先を尋ねてきた。けれども、そのときには持病を抱えておられた彼女とは連絡を取ることができなくなっていた。逝去された後で、ご友人の方から連絡をいただけた。
 死後ではあったが、「詩学」では野本さんの追悼特集を組んでいただくことができた。寺西も既に鬼籍に入られ、「詩学」も廃刊となった。けれども、一度刊行された出版物は、詩を愛する人の目に触れる機会が、いつまででも残る。

 表現者の出来ることなど、本当に小さなことでしかない。鋼鉄の壁に爪を立てて、穴を穿つような行為でしかない。ただ、野本京子の作品を、余り人の目に触れない誌面であろうとも、きちんと後世に残せたことがとても嬉しい。

 作品を、どこかに刻み残していくということは、遠い未来にいる誰かに語りかけ続けているということなのである。若い頃には気がつかなかった。けれど、このことを今は、確信をもって語りかけることができる。
2023年 5月 13日





奥主榮