「T-theaterのこと 第三部 活動後期(1)」奥主榮

2023年09月19日

一、話芸に関して

 小学生の頃、家の真空管式のテレビは、よく故障していた。今にして思えば、テレビばかり見ている子にならないように、壊れても放置していたのかもしれない。だから、僕は同年代の方たちと話すときに、テレビ番組の思い出というのが欠落しまくっている。当時のテレビ番組についての知識は、そうした欠落感から、大人になってから必死に穴埋めしたものである。
 僕が二十代の頃に、塾の教師になったとき、教え子に「うちの親は、僕が小学生のときに兄弟でテレビを見ていたら、『こんなものを見ているから本を読まないんだ』と怒り、テレビを窓から庭に放り出しました。でも、僕は本は読まずに、他の遊びをするようになりました。」という作文を書いた子がいた。僕の信念として、子どもが口にすることは否定したくないので、非難めいたことは口にしなかった。単に、テレビが悪いのではなく、親が本を読んでいないから子どもも本を読まないだろうと思っただけである。実用書や、金儲けのための本でも好いから、親が本を読んでいれば、何となく子どももマネをする。僕はそう思っている。(いや、とんでもない親で、こんな奴と同じことをしてたまるかと思われている場合は別であるが。) 「ハゲを半年で改善する方法」であろうが、「あなたの収入は5倍に増える」であろうが、本を読むのは何か悩みがあるからだ。周囲からは笑いものにされるようなことであろうと、当人にとっては深刻だ。わざわざ手間暇かけて本を読むというのは、それなりの動機があるからなのだろうなと思っている。

 十一歳年上の兄と、八歳年上の姉。生後間もなく亡くなった次男の後の三男として、僕は生まれている。1960年代当時、母は漫画に対して寛大であった。活字の本でも漫画の本でも区別していなかった。子どもが大切にしているものは、尊重してくれていた。このことは幸運であったと思う。例えば、光文社から出ていたB5版の「鉄腕アトム」や「鉄人28号」には、読み物のページがあった。書籍が潤沢にあったら、大切にくり返し読まなかったかもしれない。貧しい家で数冊があるだけだからこそ、貪るように読んだ。
 漫画も文章も、同じように読んでいた。家にあった本もそうだった。小学校低学年の頃、少年漫画週刊誌には、まだ読み物のページがあった。戸川幸夫の動物小説や、新鋭であった筒井康隆のSF小説が連載されていた。(子どもだったので、作者のことなど知らずに、夢中になって読んでいた。)

 小学校中学年の頃に知った「日曜名作座」。芸人としては全盛期であった森繁久彌と、加藤道子による朗読ドラマの名作である。ここで僕は、夏休みの怪談として小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)による「怪談」を聴く。
 大人になった後、小泉八雲の経歴を知り、その背景も知った。例えば「怪談」の中で最も有名な話の一つである「雪女」は、「誰にも話さないで」と約束した話をばらされてしまう、言ってみれば男に裏切られた女の物語である。小泉は、そうした哀しみを日本の民間伝承から読み取った上で、文章にまとめている。
 しかし、そうした背景を知らずとも、森繁と加藤の朗読から、小泉作品に込められた悲痛な思いを知ることはできた。
 その詳細は、ここには書かない。ただ、小泉八雲が書き記した怪異譚の中にこめられた、人の心の痛みが伝ったということだけは記しておく。テレビが擡頭してきている時代に、音声のみで受け手に何かを伝えおうとした方々がおられたことは、記録しておきます。

 中学校に進学する頃、まだラジオ・ドラマが当たり前のように放送されていた。といっても、かつての人気作家菊田一夫の手になる「鐘の鳴る丘」や「君の名は」の時代のような人気作品が生まれることもなく、朗読劇を楽しみたい少数の人のための番組として放映されていた。
 僕が小学校に進学したのは1965年(昭和四十年)。家では前年の東京オリンピックの放映を見るためにテレビを購入した直後であった。日本初の子ども向け連続テレビ漫画「鉄腕アトム」や、それに追随する番組の放映が続いている頃であった。小学校一年のときに、「ウルトラQ」の放映が始まっている。また、当時は海外から輸入された番組がジャンルに関わらず、数多く放映されていた時期であり、日本のテレビ局もそれらに見劣りのしない番組を作ろうとしていた。そうした時代に育ったので、テレビべったりの育ち方をしていてもおかしくないのだけれど、僕はあまりテレビ番組の記憶がない。家のテレビの真空管が切れてばかりだったのである。
 しかし、今にして思えば、あれ、わざとであったのだろうか。見たくても見られないから、外に遊びに行ったり、漫画雑誌を読んだり、家にある本を読んだり、なんだか他にもいろいろなことをしていた気がする。(その中には、小学校低学年のときにミツバチと遊んだりというか惨殺したりというか、とんでもない遊びもあった。誰かが「ミツバチは腹をちぎっても動いている」という「発見」をして、両手を刺されまくりながら、頭と胸の部分だけで動いているミツバチに讃嘆するという、とんでもないシロモノもあった。) そんなわけで、テレビがとても熱気に満ちていた時代に生きてきたのだけれど、僕は同世代と共通の思い出というのが少ない。数年前、鈴木大介さんの著作の中で、極貧と呼んでも差し支えがない環境に育った子たちが、世間からは非難を浴びるような凶悪犯罪に手を出し、その結果得た膨大な収入で、自分が少年時代に手にすることがなく、同年代の相手と共有できない漫画やゲームを買い漁るという話を読んだとき、理屈を超えて涙が出てきてしまった。
 僕にとっての救いは、「その代わりに、これを知れた」という世界があったことである。

 小学校六年生のとき、メルヴィルの「白鯨」や、ジュール・ヴェルヌの「地底旅行」を、AMラジオで聴いたのを覚えている。そして、小学校六年から中学一年にかけて、ラジオ・ドラマは激減していった。そうした中で、当時、既に時代遅れとなりつつあった表現手段で斬新な企画を目論む方々もおられた。
 作者のお名前も覚えていないし、ラストの短い時間しか耳にすることができなかった作品が、今も印象的である。
「少女を突き落したときの、指先の感覚だけが残っている。」このモノローグしか覚えていない。凄まじい虚無感。この衝撃は凄かった。
 1971年に中学入学。その時期に耳にした。もしかしたら、当時の(いわゆる)アングラ演劇関係者の手による作品であったかもしれない。(後に知るのであるが、この時期、寺山修司、唐十郎、佐藤信のお三方が、先鋭的な舞台活動を展開していた。こうした虚無感が、世相を支配している時代でもあった。(以前に、宮崎駿監督が関わる以前の「ルパン3世」は、あの時期の虚無感を反映していたと述べた通りである。)

 中学に入ったとき、家で新しい(小型の)テレビを買った。「仮面ライダー」の放映が始まった年であるが、なんだか僕には興味が持てなかった。中学生になってまで、「へんしーん!」もないだろうという気がしていた。
 ただ、新しいテレビで姉が見ていた「サイモンとガーファンクル アメリカを歌う」という番組に衝撃を受けた。夢中になって音楽を聴き始めた。
 「こんなふうに、何かを描くことができる」ということが、衝撃であった。自分では言葉にできないことを、当たり前のように歌っている人がおられる。それまで、それほど強い興味を抱いていなかった音楽を、無差別に聞きまくった。テレビも見たが、ラジオを聴く時間も多かった。

 当時はまだ、「落語」がAMラジオで娯楽番組の一環として放送されている時代でもあった。現役の噺家から、鬼籍に入られている方々、丁寧な解説と一緒にその魅力が語られた。そうした中で、僕が惹かれたのは、志ん生という落語家であった。
 僕の義父(故人)は、志ん生は江戸っ子っぽいはきはきした感じがないと口にしていたそうである。ただ、当時の弟子筋の方の記述で、こんな話を読んだ記憶がある。やたらに声を張り上げているだけの野暮な芸だと思っていたのだけれど、実際に大勢の観客を前にして演じるときには、大きな声でのメリハリが必要であることに気がついた、と。細部にこだわって小声で演じていては、客数が多いときには語りの内容が伝わらないそうなのである。
 当時、志ん生と同じぐらいに高く評価された噺家に、圓生がいた。圓生は、完成された芸を目指していたのかもしれない。二十歳の頃、端正な圓生の芸と、ある意味では崩れた志ん生の芸とについて、議論したことがあるのを覚えている。優劣などはそもそもない。僕は、まるで思い付きのように融通無碍に展開していく志ん生の落語が好きであった。
 昭和天皇裕仁の御前で、対面落語など演じている圓生の姿など、ある意味では想像したくもなかった。だって、落語って、みんなで同じ空間を共有するものでしょという意識があった。初期のテレビでは、コメディ番組を放送するときに、劇場で舞台や映画を見るときのような臨場感を味合わせる演出として、あちこちに笑い声がかぶせられていた。

 僕は、話芸について、いろいろと考えてきた。あるとき、「落語というのは、教育の普及していなかった時代に、社会的な規範を教える手段でもあった」という見解に触れた。無知な庶民が、物知りの誰かに教えを乞うという構図であると。たしかに、そういう演目もあるのだけれど、少しう~んなのでした。落語には、いくらでも教訓とは無関連のナンセンス・ネタ(「頭山」のように)あるのだから。
 僕が興味を持ったのは、噺家が再現する生活音だった。例えば、物売りの声とか。
 ちなみに、光文社からの古典新訳文庫の中の、ゴーゴリ―の翻訳に関して、僕はとても違和感をおぼえています。落語風に翻訳したとあるが、落語は会話を主体として展開している。小説であるゴーゴリ―の作品は、説明描写を主体として展開せざるを得ない。「講談調」とすべき文体だった。

 僕が子どもの頃、まだ街には「生活音」が満ちあふれていた。路上で商売をされている方々の売り声。「金魚~ぇ、金魚!」といった呼び声から、個人商店の八百屋さんや魚屋さんが口にされる、「はいっ、今日は生姜が新鮮だよ。生姜、生姜。」、「鰯が安いよ。お買い得。今日が狙い目だよ。」みたいな呼び声を聴いて育った。
 そうした声に包まれて育った僕にとっては、耳に入ってくる音声は、とても重要なものだった。

 T-theaterを始める以前、1980年代から、僕はそうした音声に興味を抱いていた。当時、江戸東京ブームというのがあり、失われた江戸東京の資料が大量に刊行されていた。そうした中には、昔の物売りの声を収録したCDや、大道芸人の口上を収録したカセットテープを添付したものもあった。また、中村とうようによる古い芸能のCD復刻も行われていた。
 中村とうようについても、少し触れておきたい。肩書きとして最も適切なのは、批評家や評論家といったものであろうか。創作の場で、実作者からは嫌われるタイプの人間である。しかも、かなり頑なな視点を持っている。いわゆる日本のフォークソングに対して、そもそも民衆の間での伝承に根差していない歌をフォークソング(民謡)などと名乗ることは僭越であると批判し、すったもんだの末に高田渡と対談することとなった。そのとき、高田が対談の席で酒を飲みかわし、下戸の中村が酔いつぶれてしまい対談が成立しなかったという話を読んだことがある。
 見識はあるが、自分の座標を譲れないインテリの見本のような人間である。ただ、その業績は大きい。僕は若い頃、中村が携わった世界の民族音楽のアルバムの中の一枚を聴いて、とても心を動かされた。どういったら好いのだろう。何か、音楽として整合性や完成度を求められる以前の、「何だかよく分からないが、音を出したい」が横溢していたのである。
 中村が復刻した音源の中には、豊年斎梅坊主の芸がある。その内容にまでは立ち入らない。ただ、僕が十代の頃までは確かにいた、香具師の流れを汲む方々の源流が、そこにはあった。そうした意味で、話芸としての梅坊主に、僕は中村の復刻によって触れた。こうした話芸で面白いのは、通行人の足を止めるための最初の掴みから始まって、巧みな展開で話題をずらしていく語り口の上手さであったりする。(僕が中学時代の1970年代半ばには、まだ電気街で夥しいジャンク屋があった秋葉原の駅前には、こうした話芸によって、針の穴の糸通し等の品物を売る商人がいた。) こうしたCDを出したことは確かに中村の残した業績である。しかし、その一方で二代目の芸を、一代目と比較するためにだけ音源を収録するといった編集には疑念を抱いた。一代目と比べて聴き手に媚びているといったことを述べるためであることに、鼻白んだのである。大道芸だからこそ、年月を経る間に俗化していくことは非難されるようなものではない。

 映画作品の中で再現されたことで、興味を持った話芸もある。中川信夫監督「怪異談 生きてゐる小平次」の登場人物たちが商いとして行っている語りである。中川監督は、一般的には「東海道中四谷怪談」などの怪談映画の巨匠として知られている。しかし、実際には怪談映画の本数は百本を超える監督作品の中では少ない。遺作となったこの作品では、二人の男と一人の女という、「冒険者たち」や「突然炎のごとく」のような構成でありながら、華やかさはない。この映画の中で、登場人物たちが口にする芸は、何となく無気力なのである。僕は、それがとても気になった。
 千葉県にある国立歴史民俗博物館で、「のぞきからくり」の口上に触れたとき、その意味を理解できた。力を込めて、客商売として語り続けることは、疲弊する。しかし、疲れないように語り続けるような声の出し方も可能なのである。中川監督の映画で再現されていたのは、一見無気力でありながら、一日中発生し続けても疲れないような話芸であった。
 関西の国立歴史民俗博物館も、その展示のクオリティは高い。ただ、既に鬼籍に入られているが、僕が敬愛する考古学者(佐原真)が館長を務められていたここの展示は素晴らしい。一例を挙げれば、レプリカとはいえ「差別戒名」を刻んだ墓標を展示しているのである。
 ちなみに、「ツィゴイネルワイゼン」「陽炎座」などによって知られる映画監督鈴木清順は、中川監督の「東海道中四谷怪談」の中の、画面全体に突然緋色の毛氈が写しだされるシーンが印象的であったと、文芸坐での特集上映のトークショーで話されていた。
 個人的に好きな中川監督の作品は、「『粘土のお面』より かあちゃん」という作品である。曳舟辺りの湿地帯に住む貧しい一家を描いた作品で、子役時代の二木てるみが主役を演じている。映画の最後の方で、生活に困窮した一家が夜逃げをするシーンがある。このとき、それまでは、夜逃げなんかしたら許さないといったことを口にしていた差配の人(職業としてではなく、町内の世話人として不動産などの紹介をされる方)が、本当に大八車に家財道具を積んで夜中に(家賃も踏み倒して)歩いている姿を見て、そっと物陰に身を隠すシーンがある。この映画の再上映の折りに、高齢の二木てるみが差配の人がそっと身を隠す映画の白眉として絶賛している。
 また、左幸子主演の「青ヶ島の子供たち 女教師の記録」は、おそらく漫画家ちばてつやの初期作品である「島っ子」に大きな影響を与えている。
 詩人として、人間の悲哀や辛さを描く方でもあった。その多面的な魅力や影響力は、もっと検証され、再評価されて良いと、僕は思っている。

 声による表現について、あれこれ書こうと思っていて、筆がかなりすべってしまった。余談ばかりの話のようで申し訳ない。

 故小沢昭一が、シリーズでまとめた音源に、「日本の大道芸」というのがある。レコードの時代に買いそびれて、CDで復刻されたとき第一集を購入した。T-theaterのミーティングでかけてみた。
 ほとんどの人が雑談していた。
 参加メンバーとの間に、僕が温度差を感じ始めた瞬間であった。
2023年 8月 28日




奥主榮