「T-theaterのこと 第三部 活動後期(2)」奥主榮

2023年11月23日

二 第四回公演 「ストンと、ね」

 ※ 当連載の中の、「第二部 四 宣伝ということ ~ 作家性ということ」の中で、「クオレ」を誤って「クレオ」と表記していました。謹んでお詫びいたします。(クレオは、アニエス・ヴァルダの映画の登場人物である。)

 第二回公演から第三回公演までの間には、かなり準備期間がかかった。
 なので、翌年に第四回公演をやりたいと思った。第三回からの参加メンバーには、そんな短い準備期間では無理だという声もあった。「無理だ」と言い張る参加者の一人と、賭けをした。準備期間一年での公演が実現できたら、次の公演に参加すると。

 盛況だった第三回公演にいらしていただいた方々からも、参加表明をいただけた。
 ただ、この公演では第二回公演以上の決定的な亀裂が、参加者の中に生じた。ミーティングの時刻に遅刻する方々がおられたのだ。そうしたときに、僕は判断ミスをした。遅れてくる方々を待ってしまったのである。待たずに打ち合わせを行っていたら、あるいは亀裂は生じなかったかもしれない。ただ、時間通りにおいでになられない方々を待つ時間というのも、僕は有効に活用したかったのだ。ゆるく会話をして、なんだか取り留めもないタイトルの公演の意図を共有する。そんな時間にしたかった。でも、そのことが、時間通りにいらしている方と、遅刻していらした方との、温度に差を生んでしまった。
 この公演は、舞台そのものは卒がなく行えたと思う。しかし、僕にとっては、とても残念なものであった。

 このとき、僕は大村浩一に「栄養定食」という若い頃に描いた作品の朗読をお願いした。

 僕が詩を描き始めたのは中学一年の頃。ただ、それよりも前から、原稿用紙と向かい合っていた。(1960年代には、またパソコンは影も形もなかった。) 小学生の頃、どうしても何かを描かない気持ちでいられなかった。人付き合いが苦手でうまく喋れない、上手に自己表現できない僕は、文章という形にまとめることでしか、自分であることができなかった。そんなとき、とりあえず原稿用紙を前にすると、何だか一人前の原稿を書いている気分になれたのである。
 小学生時代の僕は、周囲と馴染めない、というただそれだけの気持ちから、冒険ファンタジーを描き、荒唐無稽な空想科学小説を描いていた。余談になるのだけれど、当時の子ども向けの「子供の科学」といった科学雑誌には「世界の奇譚」的な「科学実話」の記事が出ていることがあった。そうした記事を読みふけり、「科学雑誌なのだから」と体長十メートルの巨大ミミズの存在を主張したりして、級友たちから馬鹿にされていた。(実際、馬鹿である。) 実は、科学雑誌にこうした記事が出ていたことには理由がある。
 まだ冷戦が終わっていなかった当時、米ソのどちらも、超常現象と呼ばれる現象を解明し、軍事利用しようとしていた。当時の児童漫画家で、SFに興味のあった作家たちは米ソの軍事関係や科学関係の組織が公開するデータを引用することで、「現実的でない物語は受けない」と主張する編集者に対抗した。1960年代の石ノ森章太郎作品や、藤子F不二雄先生の作品の何編かに、そうした傾向が強く見られる。世間から認知されていない分野を確立したい意思の強い作家にとっては、いわば「アカデミック」な情報であった公的機関が発表する超能力や超常現象に関するデータは、拠り所であったのだろう。ただ、それはあくまでも冷戦下というパワーバランスの中でのあだ花であった。
 ただ、そうしたオカルティズムと政治や戦略との結びつきというのは、冷戦下に始まったことではない。(この辺の話題、陰謀論の一環として展開される方が多いので、触れると誤解を招きそうなので避けたいのだけれど、少しだけ踏み込んでおく。) 比較的卑近な例としては、ナチス・ドイツもまた、超科学的な技術に頼った兵器開発を行おうとしていた。オカルティズムに基づいた発想からである。当時、ナチ党によって迫害された教育機関に、シュタイナー・シューレ(学校)というのがあった。日本では、子どもの個性を許容する理想的な教育機関のモデルのように受容されてきた組織である。その認識も正しい。しかし、ナチ党がシュタイナー・シューレを弾圧した根拠には、別の理由もあった。
 シュタイナーもまた、オカルティズムに傾倒していたからである。
 四十年ぐらい前、ガウディとシュタイナーの建築を対にして出された写真集があった。そこでは、日本では「子どもの個性を伸ばす」と受容されたシュタイナーの思想の中の、「宇宙から送られてくる力を受け入れるための建築」といった、今風の言葉で言えば「スピリチュアル」な側面が紹介されていた。(ちなみに、「モモ」や「果てしない物語」を描いたミヒャエル・エンデは、シュタイナー・シューレの出身である。)
 余談の中での話ではあるが、人が「自分の拠り所」にできるのは、ときにはまだ受容されていない価値観であり、異端視されて、嘲笑されることで、「自分探し」などという甘い言葉では誤魔化しきれない、自分の隠しようのない姿と直面されることに、とても大切な時期があるのではないかと思う。

 閑話休題。
 苦しいから切羽詰まって、何かを描く。そうしたことを、僕は小学生の頃にしていた。中学生の頃にも、高校生の頃にも続けていた。
 ある時期から、僕が描くものの中に、一定の攻撃性があるものが現れてきた。

 十代半ばの当時、僕が描こうとしていたものは、理解され難いものであったと思う。
 小学校で、担任教師が「模範的な作品」として紹介した、「週に一回家族会議を行い、そこで悩みごとを相談し合っています」という作文に、僕は嫌悪感をおぼえた。そうした、「飾られた表現され、評価されることが約束されているもの」に対しての、体質的な拒否感が強まっていった。
 詩を描き始めた中学生の頃、それは「自分を傷つけるような表現」にもつながっていった。それでも、必死になって、周囲の世界とつながっていたいという気持ちはあったのだと思う。
 アンディ・ウォーホールが指摘するままの、「一瞬だけのヒーロー」になる機会があった。僕の描いた詩が、学校の壁に国語教師の手によって貼りだされ、話題になった。が、それは僕の望んでいたものとは異なっていた。
 僕は、自分が何をしたいのかを、自問自答し続けた。

 やがて気が付いた。既に二十代になっていた。
 生きていることを確認し、生存証明を求めるような作品。自分の気持ちをオブラートに包みたいと思いながら、徐々にそこからはみ出していく感情を持て余した。
 そうして描かれていった作品群が、僕にはある。悪意のある作品群である。特に、二十代から三十代にかけては、自分も他人も傷つけて回るような、そんな作品を描き続けた。十代の頃には、隠したかったことを、二十代の頃には平然と描いた。それらの作品群は、ある意味自傷行為によって自分が生きていることを確認するような行為であったのかもしれない。

 たしかこの公演の前に、大村は結婚を控えていた。僕は、大村が自分をさらけ出し、誰かに攻撃的な表現者である時期がおわるのだと、漠然と感じていた。いや、そもそも大村作品の魅力とは、そうした攻撃性とは無縁であった。生活者の悲哀を描くときに、大村の作品はいちばん輝いた。けれど、そうしたことを直截に描く年齢とは惜別しなければならない時期を、僕も大村も迎えていた。

 自分を傷つけるようにして描いた、そんな作品の一篇を、大村に朗読してもらいたいと、そう思った。

 漠然と、T-theaterという集団の限界を感じていた。

2023年 8月 28日


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参考資料 「栄養定食(初期形)」

        栄養定食

 正しく健気な休日の風景、駅前商店街ハッピー通りの定食屋「ニコニコ食堂」の親父は、揚げ物の油の染みた耳クソをほじったマッチ棒の匂いをかぐという、豊かな日本の中流市民にふさわしくない悪癖をつつしんでみる。清く明るく行楽を楽しんだニューファミリーの家族連れの人達は「ツカレチャッタママ」への暖かい思いやりで、便所の戸が壊れかけた食堂にさえ足を向け、辛気くさい小さな店にも明るい希望の花を咲かせる。こんな日には親父も何故か、自分が素敵な日本国一市民と感じられ、政府広報のCMさえも信じきってしまう。
 店の扉を開け放ち、入る客入る客に、いつになく心軽くでっちあげる作り笑いで、平均的市民社会の仲間入りをしてみる。
 ほのぼの家庭のもたらす風はウキウキ・トキメキ。会社の昼休みには一皿七十円のお新香すらケチる元気な父さんたちも、お子様ニコニコ定食に目玉焼きつけてもらって、大盤振舞の気分。そんなことで良い気分になるより、晩酌の麦酒一本増やせば幸せなのに。

 十年もたてばこんなひなびた駅前商店街など鼻もひっかけず、女誘って気分の良い店を飲み喰いして歩くだろう飢鬼どもに、多少焦げ付いた焼きウドンみたいなスパゲッチを「ごちそうだぞ」なんて言って食べさせ、家庭サービスの疲れをダシに頼んだ麦酒の小瓶に、ほんのり赤らんだ頬ゆるめて笑う、しっかり父さんの落としてゆく金は、ちっぽけな定食屋のなかなかの稼ぎだ。そんな中で、みんな明るい、平和な市民。股肱の御楯だ、股間のオッ立てだ。

 幸せなんて、あんまり欲張って味わっちゃいけないものだと知っているのに、日が暮れてからも手を変え品を変え登場する家族軍団のオーバーフローに、つい心浮かれ閉店しそこなっているとき、唐突にその客はやってきた。

 うっそうと入り口に立ちふさがり、平和な社会を怨めしげに上目でうかがい見やる、真性陰湿屈折人間之生き残り天然記念物的仏堕地獄外道輪廻青年は、中流市民社会を一瞬気まずくさせる名人だ。その冷ややかな空気をものとせず、暗い目で店内ねめつけた後、壁のメニューを素早く眺めると、ぼそりと一言、
「栄養定食」つぶやくなり、片隅に腰をおろす。
 店の親父は、いったい何でまた俺はこんな楽しく正しさ溢れる日にまで「栄養定食!! 六百三十円」なんて貼っといたのかと、自分の商売男根性不屈の精神艱難辛苦をモノとせずに恨みの念凝らしつつ、飛ばないフライパン握る。投げやりついでに匙も投げ料理作り、しぶしぶ客に出す。とにかく安い材料にニンニクやニラの匂いをつけたそれを、ジュルジュルズズズと音たてて、喰い始める屈折青年。
 そんな客が来れば中流家族の足も途絶えて、親父は一人カウンターの中、目をそむけハイライトをくわえながら、壁を這うゴキブリを眺める。他人と目を合わせたくないときには、ゴキブリを見るのが一番、第一表情がしぶくなる。
 脂の塊のようなギラついた定食、青年の口に吸い込まれ、それと同時にスタミナはあっという間に五蔵六腑にゆき渡る。筋肉はムリムリと盛り上がり、眼光はグサリと突き刺すよう、体まで数倍に膨れたように妖気漂わせ立ち上がると、何もかも踏み潰さんばかりの足どりで、金も払わず店の外へと向かう。
 おどおどと、それでも精いっぱいふてくされ、親父、一言。
「お勘定!」
「何! 貴様、誰に向かって喋っているつもりだ!」大地の底をも揺るがさんばかりの声で青年、腕を一振り。
 嵐が店内を駆け抜ける。
 青年の姿が消えるのを待って、吹っ飛ばされた拍子に頭にくっついたゴキブリ・ホイホイをはがしながら、親父はぼやく。
「これだから栄養定食は儲からんのだ」
 と、その一言と共に店の外に上がる笑い。親父が見やれば先刻まであれほど身近にいた明るく楽しい中流家族の群れが、店内指さし何やら楽しげに笑いさんざめく。
虚を突かれながらも親父、こいつらの仲間になっていた方が気楽だと言わんばかりに媚びを含んだ照れ笑いを浮かべながら、頭に手をやった。

 にっぽんは、きょうもへいわです。

                                  '82 9/10
                                '87 12/27 改





奥主榮