「T-theaterのこと 第三部 活動後期(3)」奥主榮

2023年12月13日
三 幻の番外公演


 T-theaterには、一回だけ番外編的な公演がある。

 参加メンバーの一人であった白糸雅樹が、自宅の近所の公立中学校でバザーがあって、その会場で、ステージで何かできるということで、枠を取ったのである。僕と白糸、大村が参加した。特に打ち合わせもなく、それぞれが好きなことをやった。
 白糸は、第0回公演のときに僕が朗読した「僕たちは素敵なコマーシャルソングを歌いながら海の見える坂道を下る」を扱った。この作品は現代詩フォーラムの創設者である片野晃司が、立ち上げたばかりのフォーラムに挙げた作品である。片野は、現代詩フォーラムの規模が大きくなっていくにつれ、作品を発表しなくなってしまったが、非常に残念なことだと思っている。白糸は、僕とは異なった解釈で、この作品を朗読したかったのではなかろうか。
 このとき、白糸は会場の子供たちを巻き込もうとした。手提げ籠に入れたお菓子をステージからばら撒き始めたのだ。ステージに駆けあがる子ども達。でも、制止する親御さんの声。「ステージに上がっちゃダメでしょ。」 それは、正当な指導なのであろうか。白糸は、とても残念だったそうだ。
「こういうことをしてはいけません。」という躾けは、必要だと思う。それができないと、非難される親も存在する。でも、そうした矯正が不可能な子らも厳然と存在しているのである。
 白糸が投げているキャンディー、それをハルメンの笛吹き男に誘われる子どもらのように集まる子ら。かどわかされているものとは思わない。夢中になってしまうものに、手を伸ばすことを、誰にも否定してほしくない。僕もまた、学校の所蔵図書に熱中し、下校時間に気がつかないような子どもであった。

 大村は、オーソドックスな詩の朗読をした。鳴り物やBGMは使わなかった。公立中学でのバザー会場ということで、逆に声の表現だけに頼ったのである。


 僕は、会場がざわついている場所であることは想定していたので、いつもとは詩の書き方を変えた。おそらく誰も集中して耳を傾けていないだろう。だとしたら、ふっと耳に入った一行だけでも、何かのイメージを喚起できるように作品を構成すれば良いと思った。一行ごとが明確なイメージを惹起しながら、それを連鎖させて読めば重なり合うレイヤー(層)のように別の構造が浮かび上がる。
 このときの原稿は失くしてしまったのだが、経験はその後の作品創りに生かされている。

 最近、僕が取り組んでいる課題に、叙景詩というのがある。言うまでもなく、抒情詩、叙景詩、叙事詩の3つが、詩を内容で分けたときの大きな区分になるのだけれど、圧倒的に多く描かれているのは抒情詩である。僕の作品も大半が抒情詩だ。
 ただ、僕は十代の頃から叙事詩に興味があった。文庫本で数冊に及ぶ古代ギリシアの叙事詩、「イリアス」、「オデッセイア」といった作品など、子どもの頃にダイジェストでしか読んだことがないが、いつか通読したいと思って若い頃に買った。いつの間にか老眼になって文字を読むのが大変になったので、読まないままあの世行きになるかもしれないが。
 中学生の頃だったと思うが、新聞の文化欄の記事で、こんな話を読んだことがある。これらの叙事詩は朗読によって人々に伝えられたそうである。長い物語を声によって聞かせるために、名前だけでは登場人物を覚えきれなくなる。だから、個々の人物にそれぞれの「枕詞」とでもいうべき前置きの説明を韻文で付し、聴衆に印象付けたというのである。そんなことも頭に残っている。
 余談になるが、(やたらに余談の多い私の連載)30年ほど前に公開された「金日成のパレード 東欧の見た''赤い王朝''」という映画がある。これは、ポーランドの映画監督が朝鮮民主主義人民共和国の建国40周年記念式典を撮ったものである。冷静な視点から金日成を神格化する式典を描きながら、そうした個人の神格化が行われる国家の歪みを批判的な言辞は一言も無しに描き出していた。この映画の中で、金日成という名前が読み上げられる前に必ず、「偉大なる……」といった長々とした賛辞が入るのである。古代ギリシア叙事詩での人名への枕詞を思い出した。同時に、誰かの名前に必ず賛辞の詞を冠していくことによって人の意識を操作していくことの怖さも感じた。
 それはさておき、僕には17歳のときに描き始めた「シザン神話」という叙事詩がある。ただし、最初の数篇を描いて、中断した。30代半ばで、「詩のフォーラム」で続きを描き始めた。「神々の物語」、「神々と人間の物語」、「人たちの物語」の三部作にするつもりだった。が、フォーラム内部の悶着の中で中断し、それきりになっている。残りの人生の中で、完成させる時間はあるだろうか。
 それとは形を変えた叙事詩も、ここ数年で書いている。2018年に描いた「海の時代へと」である。

 叙景詩というのも、ずっと興味を持っていた。どれだけ風景を描き続けても、作中に一言でも感情を表す単語が入れば、それは抒情詩になってしまう。純粋な叙景詩はとても少ない。また、ただの風景描写だけの詩だと、余り面白くないと思われがちなのだけれど、そんなことはない。小学校唱歌の「冬景色」(作者不詳)や、童謡の「小さい秋見つけた」(サトウハチロー)のように、風景描写の積み重ねから、受け手の感情を掻きたてる作品というのも存在する。そうした叙景詩に対して、僕はずっと憧れを抱いていた。時おり取り組んでは、「出来が悪いな」と感じていた。
 あるとき、ふっと体育館での番外編公演のときに、どんなことを考えて自作を描いたかを思い出した。一行が屹立し、それの連鎖によって重層的に構築される世界。今までのような、不達成感はなかった。

「叙景」だけによって構築される世界。目に見えるものを描くだけなのに、どれだけ受け手の感情を惹起する作品が描き得るか。そんなテーマを最近は追及している。ある程度の数、作品を描けたら「僕の見てきた景色」というタイトルの朗読会を行おうかと思っている。

 僕にとって、不利な条件の伴う舞台というのは、作品の描き方についていろいろな発見をさせてくれる機会でもあったようだ。
 ところで、このバザー会場で売られていたVHSビデオ「きかんしゃトーマス トーマス あなにおちる」というタイトルに、大村がはまってしまった。「ああ、なんだか気になるタイトルだ。でも、無駄遣いすると家に帰って叱られるし。(悶)」としているので、即興で「奥主版 トーマス あなにおちる」を朗読した。場所柄、僕の異常性は一切出さずに、穴に落ちたトーマスを他の列車仲間が助けるという内容にまとめた。けして、穴に落ちたトーマスを、穴を掘った無知な村人が「丘蒸気は毒の煙を撒いている」と石子詰め(日本の伝統的な処刑法。手塚治虫「火の鳥 鳳凰編」にも登場する。)にするといった内容にはしなかった。場所柄、冗談半分でやっていても、「トーマスのお話だぁ!」と子どもが聞き耳をたてている可能性もある。小さな子の記憶には、「確かに見たトーマスの話」として記憶されてしまう可能性だってあるのだ。
 なんだか、混沌の中での公演であったのだが、ちぐはぐな場所での「詩の朗読」も楽しかったなと思っている。

 最近書いた叙景詩の一篇を引用しておく。

2023年 9月 14日




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参考資料 「影絵の街」


空は奈落の底のように
深く澄み渡り 人を魅了する
訪れた季節 かわいた風に
枯葉がからからからと
舞い上がる どれだけ
転がりまわろうと
いきつける場処はないというのに

吹きつける風が冷たいからと
厚い衣装に身を包んだ人の群れ
街路樹の下で 自らを守るように
からみついてくるものを纏いつかせまいと
拒むように身をくるむ
つながれている母と娘の手さえもが
二人の間のへだたりを
うたいあげているよう

空が染まっていく凍てついた色彩に
街が影絵の世界へと変わっていく
裸樹の梢は鋭い切先で
大気を引き裂いている
朝焼けの暖かさにも似た
ぬくもりにくさびが打たれ

もう、世界はまるで
凍てついてしまったよう

2022年 12月 15日
2023年  1月 9日 二稿





奥主榮