「世界はずっと昔に崩壊している」奥主榮

2024年07月31日

 数年前に行きつけの映画館で、「女体銃 GUN WOMAN/ガンウーマン」という映画を見た。このタイトルを初めに見たときに、僕は魅了された。こんなことを感じたのである。
「このタイトル、とてつもない駄作か、とてつもない傑作のどちらかになるしかないではないか。」そう思ったのである。
 当日、喜々として劇場に赴き「『女体銃』のチケットを下さい」と言おうとしたら、受付にいた方に言われた。「ええと、今の時間ですと『GUN WOMAN』のチケットですね。」。僕は、「そうか、この映画は『GUN WOMAN』と呼ぶべきなのか。」確かに、その方が口にしやすいタイトルである。でも、僕の中では、「女体銃」という言葉の響きが、心の内側に広がる襞のように残っていた。
 そうして、その日見た映画は、とても好みの作品であった。

 高原英理さんという作家であり評論家であり、歌人である方がおられる。この方の著作に「ゴシックハート」という一冊がある。僕が非常に敬意を抱いている方である。その中に、こんな部分がある。楳図かずおの「赤ん坊少女」という少女漫画に触れた記述である。醜い容姿のまま、さらに赤ん坊の姿のまま成長できず、世間を恨む少女タマミを敵役に設定した物語である。赤ん坊だから可愛いと思って、タマミを抱き上げようとした女子生徒が、突然目にした醜い姿に放り出し、「きゃー、バケモノ」といった感じの悪態をつきだすシーンがある。これに対して、高原英理さんは(揶揄ではなく)「いくら何でもこれはないだろう」といった感想を書いている。それを読んだとき、僕はむしろ、「こんなことは日常茶飯事だろう」と、そう思った。

 昨年、「女体銃 GUN WOMAN/ガンウーマン」の監督である、光武蔵人監督の新作「唐獅子仮面」が公開されたとき、僕は毎日の些事に追われて見そびれた。そんな作品が、行きつけの映画館で公開される(しかも光武監督の特集上映も含めて)と知ったとき、僕は躍り上った。しかし、野暮用や体調不良にたたられ、ようやく見ることのできた「唐獅子仮面」を見たとき、僕は肯定的な意味で驚愕した。
 これは、永井豪の作品世界、いや、その弟子の石川賢の作品世界をも最も理想的な形で具現化したものではないかと、そう感じたのである。

 SF作家の小松左京の、かなりの作品や発言を僕は支持している。敬愛する岡本喜八監督が、発表当時に小松の小説「日本アパッチ族」を映画化したがっていたという話も読んだことがある。小松は、それだけの感銘を周囲に残していく作家であった。ただ、晩年は残念な言動が多くなった気がする。ある意味では、晩年の小松左京は、老いを深めつつある僕の反面教師である。
 けれども、そんな晩年の小松左京が、永井豪の作品の文庫版の解説を書いたことがある。たしか、「オモライくん」というギャグ漫画であったと思う。おそらく、永井氏のデビュー時からの作品に触れてきた小松は、こんな指摘をしていた。繊細な子どもにとって学校は地獄なのだと。
 学校だけではなく、この世界の現実そのものが地獄だと指摘し続けたのが、永井豪や石川賢の作品であった。

 永井豪の代表作である「デビルマン」。これを、結末が凄惨であるという理由だけで、「トラウマ漫画」とか言う連中が、僕は大嫌いである。「デビルマン」は、僕には、夥しい涙とともにしか読めない、痛みを伴った作品なのである。僕は、スティーンブン・キング原作の映画、「キャリー」を健全な青春映画だと思って受け止める人間なのである。あの映画は、教育的な映画として小中学校の授業で上映されるべき作品だと。
 しかし、東映動画の「デビルマン」とのタイアップ企画として作られたテレビ漫画版は当然のこと、その後に作られたあらゆる二次創作が、原典の何か肝心な部分を欠落させていた。原作の展開に忠実に作られたOVAなども含めて、形ばかりをなぞったものだと思っている。
 あるいは、初出時に描き足りなかった部分を描き足して出された版なども。何か、雄弁ではあるが、初期形が持っていた肝心な部分を失っているのである。

 それらが欠落しているのは、永井作品が内在している、圧倒的な「痛みに対する共感性」という部分だと思っている。

「女体銃」の中で、人格を否定され道具として育てられる女性は、ほぼ言葉を発しない。今回の特集上映の他の作品群の中で、言葉を発しない(あるいは言葉による理解を信じていない)個人の存在というのを何度も目にした。

 世界はとっくの昔に崩壊していて、それでも、そんな破壊された場所で生きていること。そんな願いが、この世には満ち溢れている。たったそれだけの事実が認められないまま、今まで自分を取り巻いていた周囲の価値観が全てだと感じる方々は、こうした作品を奇矯なもの、異端のものとして拒否していけば好い。

 けれど、常識的な方々にとって当たり前の世界が、拷問でしかない人間も、この世界には確かに存在しているのである。
 否定しても、なかったものにしようとしても、湧き上がってくる人間らしい感情は、どれだけ踏みにじられても、けして絶やすことはできないものなのだ。
二〇二四年 七月 二〇日





奥主榮