「叙述することで距離を置く――石田諒詩集『家の顛末』を読む」ヤリタミサコ

2024年10月28日

 できるだけ普通の言葉で伝えること。しかし、そこにたどり着くまでの葛藤は底知れないと推測される。人生の高波に出会い、激しい思いに自分自身も翻弄され、言葉に出来ないほどの思いが残る。それをどのように表現するか、が、困難な関門だろう。無情・無常は自分を傷つけるのだが、その痛みは他人には伝わりにくいものだ。人それぞれ体験の範囲が違うので、作者の痛みの大きさが読者の想像を超えることが多いのだ。
 石田諒の詩集『家の顛末』の帯には「父の失踪、母の急死、私は22歳で世帯主になった。」と書かれている。詩の形式で表現されたシチュエーションは淡々と叙述されるが、その裏側にはザルで水を汲むような無常感が込められ、時に自暴自棄になるぎりぎりの状態、そんな切迫感が見え隠れする。「世話」という詩では、

   生きていないことに気づかぬ祖母の
   世話をする 世話をする 世話をする
   (・・・)
   が、叩きつけた洗濯ハンガーの
   跳ね返りほどの思いやりは
   ほこりくさい仏壇の
   いちばん奥には届かないから

 と、祖母の人生と自分の人生のクロスする地点から、関係性や親愛と嫌悪とが絡み合った感情が現れている。ここでは「叙述する」行為そのものが、書き手を沈静化させる。主体としての感情は混乱していても、それを外側から見るもう一人の自分の視点が叙述者となる。空虚な手応えといたたまれない日常がいつしか終わったことが描かれ、それを書くことによって作者はその渦中から脱出し、すでに終了した事項として、居心地の悪い事実から距離を置くことができる。
 子どもは自分の家族環境を選べないのだから、そこで自分に降りかかる理不尽な出来事は、自我が定まるにつれてナゼなのか?と思い始める。他人の家庭を垣間見れば、自分の不遇がわかる。「あまどい」という詩では、

   干すことの、行為の中断は悪天候の因果
   母のストレスの種は発芽していくばかりだが
   降ることに他意は垣間見えず
   一滴でも、天空からの落下があれば
   かまわず怒鳴り散らし
   構成員への乱暴な態度を加速させる

 と、家庭内での不条理な世界が描かれる。自分の思うままにならない状況に対して激高する母の、その悲しさ。それを受け止めつつ、暴走する感情の八つ当たりに怯える子ども。引き裂かれている感覚。その場から逃走する選択肢などありえない。かろうじて、感覚的に凍結するような場面緘黙としてやり過ごすかもしれない。恐怖と諦念は紙一重。そのひりひりする両面。
「そくせき」という詩では、「ミトンなど持たない家庭だから/手指の火傷に液体スープがしみて/そのたび私は/庭の池に飛びこむしかなかった」と、逃げ場のない子どものやるせない思いが語られる。しかしこの詩のラストは「暗転」、という単語の体言止めで終わる。過去形に押し込めることで、そして暗転という場面転換で、現在を過去から切り離している。ここに詩の力がある。言葉で表現することで、身体から記憶を運び出す作用なのだ。楽しくない記憶は身体の内部に押し込めているとズキズキ痛む傷であるが、外部へ移動させることでその重さは軽くなる。だから自分の感覚の波に合わせて取り出して、身体から放り出せば良い。その言葉たちを追いかけて、自分の苦悩に付き合いながら他者への語りかけを意識すると、そこから詩は育つ。
 この詩集の扉の前のページは、ゲルハルト・リヒターのように焦点を結ばない画像だ。粗いドットの写真の一部のようでもある(装丁は二月空と記載)。体験は本人にとってはリアルであっても、それが記憶に変るときにディストーションしていく。そんな心の風景を、このページが象徴しているようだ。遠ざかる/遠ざけることは簡単ではないが、心の記憶はリヒター作品のように保管されるのだろう。






ヤリタミサコ