詩とことば(5)奥主榮
詩とことば(5)
第一章 顰蹙をかうようであるが(4)
第一話 暴力を描いた作家(後篇之2)
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十代の頃に聞いていた音楽の話の続きなのである。その前に、少し僕が十代の頃、一九七〇年代以前の音楽について、簡単にまとめておきたい。
一九六〇年代の初めに、ザ・ビートルズというバンドが登場した。このバンドは、短期間で熱狂的なファンを獲得していった。その結果、変な言い方であるがこのバンドのファンは、カルト教団の信徒のような扱いを受けた。熱狂的に受け入れる人と、それを否定する人。今聴けば、初期のザ・ビートルズはコーラス主体のメロディアスな曲を演奏している。しかし、当時は「あんなものは音楽ではない」、「喧しいだけの騒音だ」といった凄まじい反発を受けていたのだ。その後、そうした熱狂と罵倒の末に、時間をかけて誰にも受け入れられる音楽として一般化していった。(映画監督、大森一樹のエッセイの中に、こんな指摘がある。初期の「007」映画の中では、ザ・ビートルズの音楽は耳栓なしに聞けない音楽と揶揄された。その十数年後には、ザ・ビートルズのメンバーであったポール・マッカトニーが「007」の映画音楽を担当することになる。) この辺、前に書いた日本のアニメーションのフランスでの受容とも似ているかもしれない。否定されていた作品が、スタンダードなものとして理解されていったのである。
今では学校の音楽教科書に載るようになったザ・ビートルズの歌(しかし、教科書に載るというのは、それはそれで、恥ずかしいことでないかな)であるが、最初に台頭したときにはキワモノとしか思われていなかった。
おそらく、当時のザ・ビートルズの音楽の受け取られ方について、今の視点からでは状況を正確に理解することが難しい。大人からは低俗なものと思われていた一バンドの存在が、当時の文化の在り方そのものと密接に関わっていたのである。
彼らが影響を与えたのは、音楽に対してだけではなかった。美術、映像、言動といったものが、急激に価値観が変動していく時代と密接に関わっていた。
余談になるが、僕が中学の頃、音楽の教科書にウディ・ガスリーの「我が祖国」という歌が掲載されていた。ウディ・ガスリーは、アメリカのフォーク・ソングの始祖とも呼ばれる大きな存在である。先年ノーベル文学賞を受賞したボブ・ディランも、ガスリーのフォロワーとして歌い始めている。
けれど、当時の僕はまだ、ウディ・ガスリーという歌手を知らなかった。「我が祖国」という歌について、いたずらに愛国心を刺激する歌という印象しかなかった。移動労働者の立場から自分のcountryについての愛を謳いあげた名曲なのであるが。
今にして思えばどのような経緯で学校教科書にガスリーの歌が掲載されたのかと思う。
閑話休題。
ザ・ビートルズのヒットは、誤解された。「電気楽器を抱えた喧しい音楽をする連中」とカテゴライズされながら、人気を博し、その結果世界中で多くの模倣者を生んだ。日本ではそうしたバンドは、グループサウンズと呼ばれた。そして、当然のごとくキワモノ扱いも受けた。そうした状況は、井筒和幸監督の映画「パッチギ」の中にも描かれている。
自分たちのやりたい音楽を既成のカテゴライズに収められないために、グループサウンズと呼ばれるグループの中での活動を始めざるを得なかったバンドがいくつかある。描きたいものはかなりずれているのだが、デビューするためにはグループサウンズというスタイルを選ばざるを得なかったのである。
前回、僕は一九六〇年代から一九七〇年代にかけての政治状況について、少し触れた。例えばアメリカン・ロックのバンドのいくつかは自国が引き起こしているベトナム戦争を、直接的にも間接的にも描かざるを得なかった。
フランシス・フォード・コッポラ監督の映画「地獄の黙示録」の冒頭に、ドアーズの「ジ・エンド」が使用されるのは、ただ同時代の音楽であるからだけではない。あの曲の中には、参戦によって病んだ多くの屈折した思いが投影されているのである。
音楽を生む状況は、時代背景と密接に結びついている。カテゴライズされやすい、つまりどう反応して良いのか分かりやすい音楽とは別に、どう対応して良いのか困る音楽も生まれていった。
でも、表現なんて、そもそも対応に困ることをがなりたてることではなかろうかと、僕は思うのである。
ジャックスというバンドを初めて聞いたとき、僕は対応に困り、とても好きになった。
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中学時代の僕は、かつてジャックスという、奇妙なバンドがいたということを、洋楽好きのクラスメートから聞かされた。一九七〇年代の前半には、既に解散していた伝説のバンドであった。
僕は、「からっぽの世界」という曲を、ある意味ではメジャーなラジオ番組で耳にした。(引用歌詞中に、現在では差別用語とされる語句がふくまれますが、そのまま引用します。)
僕 おしになっちゃった
何にも話すことできない
僕 寒くなんかないよ
君は空を飛んでるんだもの
僕 死にたくなんかない
ちっとも濡れてないもの
静かだな 海の底
静かだな 何もない
(早川義夫、「からっぽの世界」より、冒頭部分引用) (ちなみに、この連載原稿の中では基本的に、音楽の歌詞に関しては、ネット媒体で確認できた音源から、耳で聞いて文字に起こした引用と、記憶による引用を用いている。)
この歌を聞いたラジオ番組は、今では文化人という色彩が強くなってしまったミュージシャン小室等が進行を務めていた。AMラジオ局で夕食過ぎの時間帯に放送されていた「三ツ矢フォークメイツ」という番組である。当時、差別に抵触する語句の放送などは少しずつ避けられるようになりつつあったが、聴取者の多い時間帯でも、この曲は流された。
小室等は直接的なメッセージに頼らないという点で、この歌を高く評価していた。確かに、この歌が持つ、受け手のイマジネーションを刺激する力は大きかった。イメージによって形成された抽象的な表現が、聞いている人間に強烈な印象を与える。この時代にまだ多かった、政治的でストレートなメッセージを小室等は批判していた。そうではない音楽表現の例として、この曲を流していたと記憶している。
またしても余談になるのだが、「からっぽの世界」の歌詞の一部は、漫画家の吾妻ひでおが何かの作品で引用していたことがある。吾妻ひでおの作品では、三上寛の歌の「小便だらけの湖」というタイトルが飛び出したり、つげ義春の「夜が掴む」という作品のパロディが登場したりと、吾妻が活躍した一九八〇年前後にはまだ許されていなかった、万人受けしないネタが平然と使われていた。
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ジャックスのファースト・アルバムを鷺宮の星光堂レコード店で手に入れたのは、中学三年のときであった。グループサウンズという枠に収まりきらないバンドに冠せられたキャッチフレーズ(レコードの帯に印刷された)は、「あぶない音楽」であった。
このアルバムのレコード・ジャケットは、徐々に才能を認められつつあった大森一樹監督が、やはりまだブレイクする以前の村上春樹のデビュー作を映画化した「風の歌を聴け」の中で、短い時間であるが映し出される。
レコード発売から四年ぐらい売れ残っていたアルバムの帯の、この惹句には生意気盛りの中学生は苦笑し、レコード盤に針を落とした。(この時代、どんな作品も「コンテンツ」ではなく、それを受け取るために、一定の準備というか、過程というかが必ず在った時代だったのである。LPレコードというのは、ラッピングされて売られていて、外の薄いビニールを開封した瞬間に「LPレコードの匂い」(当時の級友の表現)がしたのである。めったに「LPレコードを買う」などという贅沢は味わえなかった時代、「レコード盤をターン・テーブルに置く」、「レコード盤に針を落とす」というのは、自分の意思で自分から作品にアプローチしていくという決意表明だったのだ。)
嵐の晩が好きさ
怒り狂う闇が俺の道案内
嵐の晩が好きさ
殴りかかってくる 雨の男たち
俺は湖に船を出す
嵐は船を滅茶苦茶に叩く
真っ暗な 真っ暗な
水の中から現れる
白い両手で俺を抱きしめ
嵐を誘う
水の中から湧き出た生命
ずぶ濡れの櫂と肉体を
激しく寄せて
嵐は叫ぶ 湖は怒る
稲妻は走る 俺は嵐で洗われる
目も眩む恋に
何も見えない嵐の晩に
激しく狂った男たちに囲まれて
俺はマリアンヌを 抱いている
(相沢靖子「マリアンヌ」より、全歌詞引用。)
この歌に描かれているのは、渇望なのだと、僕は思った。「何かを求めて」などという甘えた願望ではない。暴力的に襲いかかってくる未知のものに対して、自分がどうありたいのかという、狂おしい気持ちなのだ。
語り手である存在が、何を主張しようと、それは周囲の「これが当たり前だ」という主観によって否定されてしまう状態。
実際に、リアルタイムで歌を聴いていない僕には、作品が描かれたときの、ひりひりする感触までは分からない。
ただ、後々、他の歌手が歌っている同じ曲も含めて、いろいろと聞いていった。そのうちに、どうしてもまとめきれない歌い手の中のもどかしさを感じとった。というよりも、まとめきれない何かしらを無理にまとめることなどせずに、歌い出す強い意思のようなものを受け止めたのである。
僕らは 何かをし始めようと
生きてるふりをしたくないために
ときには死んだふりをしてみせる
ときには死んだふりをしてみせるのだ
しようと思えば 空だって飛べる
そう思えるとき 泣きながら飲めない
泣きながら飲めない酒を
飲み交わすのさ
(早川義夫「ラブゼネレーション」より、冒頭部分を引用。)
自分の中にあるものを、きちんと形としてまとめられるというのは、素晴らしい才能なのであろう。そういう人間を「理想形」とする社会の中で、僕は生きて来た。一方で、そこからはみ出す人間の漏らす言葉に救われてきた。
もう、じきに六三才になる僕が、今でも支えにしている二行が、この「ラブゼネレーション」の歌詞の中にはある。
大人っていうのは もっと素敵なんだ
子どもの中にも 大人は生きてるんだ
(早川義夫「ラブゼネレーション」より引用)
当時、「ドント・トラスト・オーバー・サ―ティー」という言葉があった。三十以上の人間は信じるな。そうした言い方の背後には、こんな発想があった。大人の「分別」なんて、結局世間との折り合いをつけた訳知り顔が口にしているだけだという論旨である。世の中の気分は、そんな流れの中にあった。僕自身も、面白い発想だと思った。
一方で、「それ、本当かな?」という疑問があった僕には、大人になっても素敵でいられるという未来を呈示した(逆説的ではあるが)ジャックスは、とても魅力的に思えた。
ジャックスのLPは、結局十代の頃には一枚しか聞けなかった。それだけなのに、とても印象的だった。
けれど、当時はその魅力を語りようもなかった。今だって、できているか分かりはしない。
誰にも魅力を説明できない音楽。
僕にジャックスを教えてくれた級友も、伝説のバンドという側面以外には興味を持っていなかった。
そんなバンドの音楽を、それでも自分の部屋で聞いていた僕は、一九八〇年代頃に、ジャックスの音楽が、十年早かったことを知る。
パンク・ロックが台頭してきたとき、僕はジャックスのことを思い出していた。
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ジャックスがパンク・ロックの先駆的な存在であったことを象徴するかのようなことがある。当時の日本でのパンク・ロックの先鋭ともいえる存在であったスターリンが、ジャックスの「マリアンヌ」をカバーしたことである。
またしても余談になるのであるが、高橋留美子の漫画「めぞん一刻」の中では、当時興味本位で扱われていたスターリンについて、背景の中の喫茶店の客たちが話しているシーンがある。
閑話休題。
スターリンの遠藤ミチロウの曲では、ソロ・アルバム「ベトナム伝説」に収録された「カノン」が好きである。パッフェルベルのカノンに、遠藤ミチロウが歌詞をかぶせたものだ。
この歌について、たしか友部正人が、聞いている人の狂気を誘う音楽と指摘していたのを思い出す。
僕は今日 蓋のついた瓶の中で泳ぐ
玉虫色の光を キラリキラリさせながら
腹を出し 尾っぽを流して泳ぐ赤い金魚
ふらり ふらり ふらり ふらり
泳ぐことは 頭をぶつけることだ
見ているあなたに 痛さは分からないだろう
僕は上へも下へも行かないところで
まるで あなたの知らないところで泳ぐ赤い金魚
ふらり ふらり ふらり ふらり
七色に壊れた光の中では
冷たい水と硬いガラスの優しさに恥ずかしくなって
こんなに真っ赤になって 泳いでいるのです
(遠藤ミチロウ「カノン」より、冒頭五連を引用)
この歌を最初に聞いたのは、友部正人と遠藤ミチロウのジョイント・コンサートのときであった。友部の歌唱で聞いた記憶がある。歌詞を聞いていて衝撃を受けた。そのとき、僕の脳裏に浮かんだのは、密室の中に閉じ込められた子どもたちの姿である。
逃れることのできない部屋の中で、自分の狂気を掻き立てられていく子どもたちの姿が浮かんだのである。
この歌の結末が、子どもたちのたどり着くことができる場所であるとしたら、それは余りにも哀しい。
あーもう厭だと思うことだけが
まだこうしていれる力なのです
だから僕を愛してると言うのなら
この瓶を手に取って あの硬い
コンクリートの壁に叩きつけて下さい
(遠藤ミチロウ「カノン」より引用)
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閉塞的な状況、などと簡単にまとめたくない。どこにも出口を見い出せないような恐怖の中で、自分を追い詰めていってしまう子ども。僕もかつてはそんな一人であった。
そんな状態を描いていると感じた曲が、もう一曲あった。頭脳警察のPANTAがソロになった後で出したアルバム「クリスタル・ナハト」の中の一曲「オリオン頌歌 第2章」である。
頭脳警察というのはバンドの名前。そこから説明した方が良いであろうか。そのリーダー的な存在であったPANTAは、さまざまな逸話に彩られた存在であった。例えばお祭り気分のロック・フェスティバルに参加して、何か不快であったのかステージでいきなりマスをかいて客席に精子をぶちまけたとかいう話がある。おそらく、一九七〇年頃にしたことだと思う。
アルバムは、初めの2枚が発売中止になり、妥協作として三枚目のアルバムから発売されるようになった。
「オリオン頌歌 第2章」の収録された「クリスタル・ナハト」というアルバムのタイトルは、ナチスによるユダヤ人街の焼き討ち事件に由来する。理不尽な襲撃を受けたユダヤ人街の商店の、砕かれたガラス窓が水晶のように輝いていたということから、その襲撃の夜は「クリスタル・ナハト」(水晶の夜)と呼ばれるようになった。PANTAは、その史実を素材にアルバムを作った。
余談になるのだけれど、この作品はまだアナログ・レコードの時代に出されている。この頃、一枚のレコードというのはそれぞれにテーマを持ったものとして作成されていた。レコードという媒体は、表面と裏面という二つに分かれた収録手段に頼っていて、それもまた表現の工夫になった。
シングル・レコードという媒体は、表に一曲、裏に一曲音楽を収録していた。表面は演奏者が売りたいものであり、裏面は演奏者がやりたいものであったことが多かったと思う。
ザ・ビートルズの「イエスタディ」は、シングル・レコードの裏面に収録された曲であった。今では名曲として扱われるが、当時は「こんな地味な曲は売れない」という扱いだったのだと思う。
レコードやCD、曲がアルバムという単位で売られていた時代は、その一枚の中に表現者のコンセプトがあった。僕は、その影響を受けている。僕は自分が詩集をまとめるときは、その一冊のコンセプトをまず考える。古い考え方かもしれない。単品の作品を、「コンテンツ」として売ることが、今の時代に即しているのかもしれないが、そうした発想に馴染めない。けして否定はしないのだけれど。
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話がそれてしまったが、PANTAの歌に話を戻そう。
追いつめられた子どもたちを描いたように感じられた作品。それは、こんな歌詞であった。
偽りの静けさが 薄闇の中を
漂いつづけてる
ノブのない扉の中で希望さえ
閉じ込められたオレ達のことは
ねじれた物語に化けて 語り継がれていくだけさ
これがオレ達の世界
隠しきれない世界
(PANTA、「オリオン頌歌 第2章」より引用。)
あまりにも切ない歌詞である。
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確かに在ったはずのことが、「ねじれた物語」に化けていく様には、記憶があった。十代から二十代になる時分のことである。
僕が小学生の頃には、まだ「いじめ」という概念はなかった。むしろ、「子どもの喧嘩に大人が口を出すな」といった発言によって、大人からの過干渉は避けられていた時代であった。表面上はきわめて子どもの自主性が尊重されているように見えるのだけれど、実態は想像がつくであろう。
「大人は口出ししないぜ、イェーイ!」という、とんでもない連中が、やりたい放題をしていたのである。この時代に調子にのって、イェーイと叫んでいた連中が、今の大人は騒ぎ過ぎだとか、たわ言をぬかす。
一九七〇年代の半ばに、初めて「いじめ」ということが可視化されたときに、最初に僕が抱いた感想は、「もっと早く問題にしてくれれば」ということに過ぎなかった。
小学校三年生のときに、工場経営者の子の家に遊びに行ったことがある。十人ぐらいの級友も呼ばれていた。冬で、雪が降っていた。やがて、他の子たちは三々五々帰宅していった。僕は、「お前は最後に帰れ」と命令されていた。最後の一人である僕が帰ろうとすると、どうしてだか靴がなくなっていた。工場経営者の息子は言った。「帰っていった子たちの家に行って、靴がどこにあるか聞こう」。
「これは、友情の為だぞ。」とも彼は口にした。そうして、靴のない僕を伴って、その日に来ていた級友の家を、一軒いっけん回り始めた。
夕方から夜にかけての時間。積雪の日であっても、東京の気温はそれほど下がらない。むしろ、踏み詰められた雪が融解し、熱を奪っていく時間帯である。靴がない状態で、靴下一枚で歩いていく。水を含んだ靴下は脱げそうになり、少し走っては履きなおさないとならない。寒いとか冷たいとかいう感覚ではない。足の裏全体が何か、硬い板のようなものになってしまい、木づち(けして金づちではない)で、一歩を踏み出すごとに、がんがんと叩かれているような感覚が脳を直撃してくる。
さんざん探し回り、工場経営者の家に戻ったとき、どうしてだか僕の靴は奇蹟のように現れた。
ようやく帰宅した僕の様子に、家族が言及しなかったか。覚えていない。ただ、何かの理由を付けて、何があったのかを話すのは避けたのだと思う。自分が直面していることを正直に話して、家族に心配をかけたくないという気持ちももちろんあったであろう。
しかし、それとともに、これは誰にも話してはならないという心理があった。
誰かに話すことで、何か大きな問題が起こってしまったらどうしよう。そんな気持ちが僕の中にあった。同じような経験を持たない人には理解しがたいことかもしれないが、他人に理不尽な扱いを受けた人間が、自分を追い込んだ人間をかばうような心理というがある。(そして、そうして、被害者の意識の上に、加害者の側は胡坐をかく。)
「いじめ」というのが可視化されていった時期に、僕は自分の受けていた、そうした苦痛が、ようやく断ち切られるのかと思った。(その中には、ときには自分もまた加害者の側に回ることで自己保身を図ったという罪悪感もあった。)
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それまで意識されなかったことが、周知されること。それはきっと、それまでに多くの人には理解されなかった苦痛が多くの人に理解される機会となるのではないかと期待させた。
生まれ育った中野の街で、教育委員が「準公選」で選ばれるようになったとき、僕はとても嬉しかった。教育委員という組織があるということは知っていた。卒業式とかに来ては、どうでも好い話を得意げに長々とする迷惑な人の肩書に、そんなのがあったと思った。よく分からないけれど、偉い人で、自分たちとは縁のない人なんだろうなと思っていた。(昔の卒業式は、隙間風だらけの体育館で開かれて、中耳炎や蓄膿症に苦しめられていた当時の僕にとっては、長話は苦痛でしかなかった。)
けれど、そうした人たちが教育に関する仕事をしていることぐらいは理解できていた。その教育委員会の構成員を、自分たちの投票で選べるというのは、とても良い制度に思えた。この制度は、与党も含めて、賛成多数で議決された。
けれど、決定後になって、雲行きは怪しくなった。「大人の事情」という言葉で片付けたくない。僕は、誰かの苦痛を、自分の受けた肉体的な苦痛を通してしか理解したくない。
政治的な勝ち負けで、教育を云々する視点に嫌悪を催した。
そんな自治体で、「いじめ」を苦にした自死者が出た。途端に、「教育委員を準公選にしているから、自死事件が起こった」と言わんばかりの報道が溢れかえった。当時、仕事の同僚から、冷ややかに揶揄された。「教育委員の準公選を叩きたい為の報道ですね。」
一人の人間の死をも、ねじ曲げていく意思が存在しているのだと思い知らされた。
正義感ではないのだ。ただ、誰かの存在が辱められるという、そのことが我慢ならないのだ。当然、僕個人の、たった一人の我が侭な思い込みで良い。
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この連載の先でも、くり返し触れることになると思うのだけれど、暴力って何なのだろう。その解答は僕にも分からないからこそ、僕は問いかけ続けることとなる。様々な角度から。視点を変えて。
暴力の背景にあるのは、単純な加害・被害の関係ばかりではないと思うから。
二〇二二年 二月 六日