「わが地名論 第5回 エデンの園という地名」平居謙

2025年05月05日

「わが地名論」連載にあたって
詩の中に地名を書くこと。その意味を探ること。これは僕自身の詩集に関わりながら展開する「わが地名論」。この連載を通して〈地名とは何か〉〈詩とは何か〉を考えてゆく。



今回は「エデンの園」です。これを〈具体的地名〉と扱ってよいのかどうかは分かりません。世界地図に載っていないという意味では、架空の地名であり、本連載の埒外なのでしょう。しかし少なくとも当時の僕にとっては、(あるいは現在でも)この地の意味は限りなく大きかった。次に引用している3つのパートからなる「Eternal life」の2に〈世は終り/そして君と/であう〉と僕は書いています。この死後観はクリスチャンホームに生まれ育った僕の揺るぎない実感として今もあります。全部が終わってしまった暁には、見失ったすべての人と、ベストの状態で再会する。そのヒントとなる地が、人間の出発点である〈エデンの園〉なのです。「Eternal life」を以下に引きます。




Eternalというのは「永遠」のこと。キリスト教の世界では最高の価値観としてあります。神とともに永遠の命を得ること。そのために人は救われなければなりません。しかしこの詩の中ではその救いは〈僕にとって哀しみでしかない〉と作者・平居謙は書いています。



     Eternal life

     1.君へ
  救いは
  僕にとって
  悲しみでしか
  ない

  偽善の
  やから

  忘恩の
  徒

  きくところによると
  そうでもない
  そうである

  しかし
  現状は
  こうであると
  心からの確信

  あはれ
  かけすが
  鳴いておる

  君にこのことを
  言わなかったのは
  僕の欠点です

  君がこのことを
  きかなかったのは
  にくいアダムの
  真理です

  そして
  アダムは僕と君
  僕も君も救われようはないのです   ('84)


     2.Eternal life
  おれはお前が
  すきじゃった
  それ故に
  君とつきあってきた
  それでええんぢゃ
  ないか

  世は終り
  そして君と
  であう          ('84)


     3.エデン
  エデン
  そして
  帰るところ
  お前と
  出あう

  イブ
  魂

  今度は
  気をつけようね
  
  ヘビと
  野いちご
  知識の実         ('84)




諦念に満ちた詩です。制作時期は1984年と記されています。しかし、本当に必要なのは、1984年の何月であったか、ということです。もっと言えば6月以降かそれ以前であるのか。というのは、その年の6月に大学時代の友人であった田中榮が亡くなります。これは友人を亡くしたと同時に、僕にとっては信仰の放棄を意味しました。キリスト教の教義に拠れば、信ずるものは救われる。逆に言えば信じなければゲヘナの火で焼かれるのです。田中榮はキリストを信じてはいなかった。教義に拠れば彼は救われない。しかし僕の実感では、ついこの間まで熱く様々語り合っていた友人に、そのような仕打ちが与えられるのを許すことができない。それゆえに僕は神との契約を破棄するに至ったのです。これは、信仰の外にある人にとっては、笑うべき一事でしょう。しかし当時の僕は真剣でした。また現在まで、その信仰を新たに構築するために詩を書いてきたと言っても過言ではありません。



習作集『時間の蜘蛛』は必ずしも時系列に沿って並べられているわけではないので、はっきりとしないのですが、「Eternal life」の直前に、田中榮の死を直接のモチーフとした作品が配されていることを思うとおそらくは、彼の死後に作られたものだと思います。もしそうでなかったとしたら、僕は、かなり高度な意味で、近未来に関する予兆者です。



架空の地、エデンについて書きました。「地名論」としては先にも書いたように埒の外でしょう。しかし、この詩に書かれている、〈全部ご破算になって終りを迎えた後に大切な人々と再会する〉ことは間違いなく僕自身の世界観(死後観)の中心にあります。むしろ、その再会のために生き抜いているという気持ちです。そしてそれは多くの人の持っている感覚と似ている部分もあるのではないかと思っています。お年寄りたちは〈仲の良かった人たちはみんな向こうに行ってしまったから早く逝きたい〉などと言うそうです。それはまんざら嘆きではないのではないかと思います。少なくとも僕にとっては、失われた魂たちとの天国での再会は、待ちきれないほどの楽しみな未来です。



詩においては、架空の地名が、現実の地名よりも上位に来ることがある。



そんな仮説を立ててみました。しかし、次回に書くように必ずしもそれは最強の理論として働くわけではないのです。習作集『時間の蜘蛛』と地名について考える最後として、次回は同集最後に置かれた「尾骶骨」という作品を巡って考察します。





平居謙