詩とことば(1) 序編 感動はいらない/奥主 榮
詩とことば(1)
序編 感動はいらない
1
何かに対して、うさんくさいな、と思うことがある。
それは例えば美談というシロモノと出くわしたときである。「心を洗う美しい話」とか、「胸をうつ感動のエピソード」とか、そうした言い回しに触れるたびに、僕は鳥肌が立つ。直感的に拒否感を抱いてしまう。
同質性の集団に埋没し、思考停止に耽るようなおぞましさに対して、徹底的に抵抗したくなる。美談や感動を賛美する行為そのものを否定するほど傲慢ではない。ある意味、表現者など自己韜晦中毒に陥ったガキのなれの果てであろう。あらゆる表現は、おもねることと紙一重。あらゆる表現は、甘ったれた同調圧力の産物に似ている。
自分自身のしていることも含め、そうした行為をすることに嫌悪感をおぼえる。
2
僕はそもそも、何かに同調したくてものを描きはじめたのではない。このことをどう説明すれば良いのだろう。
誰にも馴染めない自分というものを意識し始めたのは十歳前後。その頃から、何か表現したいことというのが身体の中に溢れ出してきていた。
それが、どうしてだか分からない。ただ、性欲のように抑えようにも抑えられなかったのである。自分の中の言いようのないもの。どうしても形にならないもの。いや、むしろまとめようもないものを、どうにも自分の中で処置したくて表現とやらを始めようとしたのではないかと思う。
若い頃に読んだ六田登のマンガ「F」の中にこんな描写があった。主人公が性犯罪者にならなかったのは、車を誰よりも速く走らせるという目的を見出したから。僕は、車にも競うことにも興味はなかったが、ただ抑えきれない衝動にかられてくり返す街道レースに共感した。こうでもしてなければ、という切羽詰まった感情の描写に魅了された。
もしも作品というものが「読者の心をこう操りたい」という意図の下に描かれるとすれば、それは単なる洗脳の道具である。僕にとっては、卑しい行為に過ぎない。
作品は、けして作者の意図通りには受け取られない。むしろ、誤解され、曲解されたまま伝えられていく。
3
感動ということを、素晴らしい成果のように受け止める方もおられる。それはそれで良い。そうした価値観も確かに存在するであろう。 ただ、僕は感動ということそのものを、いかがわしいものとしか思っていない。
受け手の心を動かしました、とか誇る詩の書き手は、(いささか品のない表現ではあるが)、電マ詩人という印象を受けてしまうのである。 以前、文芸同人誌を中心にした展示即売会の会場で、観客動員数を目標として揚げたイベントのフライヤーを見かけた。
その瞬間、脱力した。 動員数は目標ではなく、結果である。
国家総動員法でもあるまいに。
4
もちろん、幸運にも、そうでない場所を見いだした人々もおられるのであろうが。
しかし、そうした幸運さとは無縁であった人の存在に僕は目を向けていたい。(あくまでもささやかな願望である。)
それを、僕は夢見ている。
そうしたものが、確かに存在しているのではないか。そんな試論を、展開したい。