「“ひとり”を選び取ること――大西美千代詩集『もはや。』(編集工房ノア)を読む」ヤリタミサコ

2024年07月12日
 人生の残り時間が見え始めるときに、人は何を考えるだろうか? 考えてもしようがないからあきらめる、というスタンスが多いかもしれない。私の両親はそうだった。が私が尊敬する文学者は、勤勉に仕事を積み重ねていった。自分の人生の行方を考えることよりも、世代を超えて残る仕事を優先したのだろう。

 大西美千代は個人誌『そして。それから』という個人誌を長く発行していて、通常の行分け詩に加えて写真詩という独自のスタイルを追求している。私も長年拝読してきた。個人誌だから個人的な生活も垣間見えることがある。家族にまつわる(要らぬ)苦労は、家族拒否症の私には受容しがたいところもあった。四国遍路旅の記録からは、決断も断念も素早い人だとわかった。執着心が薄いところは私と共通する部分もあるようだ。
 2021年の前詩集『動物詩集 へんな生き物』では、人間存在への眼差しがユニークだった。大西さん、健闘しているなあ、と思った。そうしたら3年後の今年出版された詩集タイトルは、『もはや。』だ。"生き物である自分はもはや、生き物でなくなる時が来る、だから言っておく"という強い決意を感じる。外界に言っておきたいことでもあるし、死と詩への覚悟として自分へ言い聞かせておく、ということでもあろう。
 「満月」という短い詩から引用する。


  (…)

  今宵満月
  あんなに遠い月の下で
  いきづいている人々がいる
  人々よ
  と声をかけたくなる夜

  四角いマンションの光りの列の真ん中で
  今誰かが息を引き取ったかもしれない

  月とも地球とも無縁に

  たったひとりで逝く人に
  窓から白い月の手が伸ばされる


 世間では「孤独死」と名付けられる死に方は、不幸なニュアンスで受け止められる。看病したり看取ったりする家族がないことを、平均的な幸福を欠落させていると思われているのだ。が、大西は自分自身も孤独死すると想定しているし、そのことを意志的に受入れようとしている。それはきっと満月との交歓のようなものだろう、自然な成り行きだ、と。生れるときも一人、死ぬときも一人、とよく言われる。それはそのとおりだが、大多数の人たちは友人や家族や会社という複数の人間社会に組み込まれているから、"ひとり"の練習も意識の持ち方も少なすぎる。孤立や孤独は哀れみの対象だ。が、大西は積極的に"ひとり"を肯定している。好意や友情や愛情は時に重いしがらみにもなるから、大西や私は自分の生を自分一人で背負う方が気楽なのだ。
 「それ」という作品では、


  それを小さく小さく折っていった
  角がなくなるとそれはまるでただの紙屑のように
  静かになった

  抽斗をあける
  抽斗をしめる
  (…)
  冷え始めた指先に力を込めて
  ぎっしりと固く重いそれを広げ
  最期の息を吹きかける
  (…)
  このように静めておかなければならなかったものが
  わたくしたちの体の中にはぎっしりと堆積している
  どなたさまも

 と、書かれている「それ」とは、心の奥底にしまい込んだ怒りや怨念だろう。それを体の中に堆積させた人生が終わろうとするとき、もう我慢せずに解放してよいと自分からリリースする、潔い態度だ。最後の1行の「どなたさまも」は素晴らしく皮肉が効いている。どんなに恨んでも喜んでも死ぬときは持ち越せないのだから、誰でも平等だと。悔恨も悲嘆も苦悶も、死によって無化するのだろう。そう思うと、生きている現在の小さな悩みを突き放して考えられる。

 この詩集の装丁のカバーは、渋い絣模様のような横縞が表紙に印刷されている。一見、着物の織りのように見えるが、内容を読んだ後で見ると、擦過傷のように見える。人間同士が擦れ合ってできた、心の傷跡。年月がたって薄くなり、本人も忘れてしまっていてもかすかに残る痕。そのような心の履歴を見直した上で、当たり前の"ひとり"を当たり前に受入れる静かな境地。人間全てがエゴイスティックな人生なのだから、その摩擦は誰にでもある。
 「もはや。」という詩集名は、なぜに、「。」で終わっているのか、読者それぞれに問いかけられている。「もはや」は副詞なのでその後に文が続くはずだ。それなのに「。」で終わらせている。そこに、大西の強い意志がある。





ヤリタミサコ