「わが地名論 第3回 大連から のすたるじあにて失礼申し上げ候」平居謙

2025年03月07日

「わが地名論」連載にあたって
詩の中に地名を書くこと。その意味を探ること。これは僕自身の詩集に関わりながら展開する「わが地名論」。この連載を通して〈地名とは何か〉〈詩とは何か〉を考えてゆく。



前回とりあげた第0詩集『時間の蜘蛛』(1985)の頭から13番目の詩。著者22歳の作品です。今回は最初に作品を引用してみます。

      -大連詩篇(抄)-
  のすたるじあにて失礼申しあげ候

     1 先端の時代
  大連の人々に
  ちょっとばかし聞いてみましょうか
  この家のもとの主人は誰ですか
  この家のもとの主人は誰ですか  ('83.7)

     2 街(Jie shang) 上
  僕のからだが
  くだものから出きているのに
  ご存じない?
  ほら大連で
  買ったでしょ
  まだうれてない桃        ('83.7)

     3 大連
  なんでえ
  大連なんて 過去に住んでた人間が
  安易な のすたるじあに
  ひたりに来る所じゃねえか

  そういって
  僕も ノスタルジアの
  種をまいた           ('83.8)



「(抄)」と書いているのは、最初詩をノートに書き付けた段階では、確か短い詩が10作くらいはあったと記憶していますが、その中から3篇だけ選んだからです。総タイトルはそのままなので「(抄)」としたわけです。持って行ったノートはアルファベット練習用の、下から2本目に赤い線が入っているものでした。渡航の準備で忙しく、適切なのを買う時間がなかったのでしょうか。分かりません。そのノートに、毎日毎日詩を書くのです。中国語の勉強をしに行ったのですが、何故か分厚い西脇順三郎の全詩集も持って行った。よくスーツケースに入ったなと思うほどの分厚さですが、それを読み、詩を書く。中国語の勉強と3段構えでした。引用の詩など、ちょっとモダニズム風を気取っているように見えるのですが、どんなもんでしょうか。



「大連」というのは御存知のように中国の町の名前ですね。大学3年生の時に40日間だけ中国に語学研修というか短期留学というか、そんなのに行ってるんです。10数名のグループでしたが、大学生は4人だけで、その他は中国好きOLらしき2人連れと、昔満州に住んでいて、記憶をたよりにかつての家を探し当ててみようというようなお年寄りたちが5,6人。80歳近い方もおられましたが、みなさんお元気でした。中国の先生方が「どうしてあんなに年を食ってるのに、こんなに中国語を勉強するんだ?」と不審がるほどに熱心な人もいました。もっとも中には門限を越えて(後述するように、大学の教室を開放してもらい、そこにベッドを据えて住んでいました)柵を乗り越え、着地失敗の末に骨折。一人だけ入院して帰国が遅れた猛者のお爺さんもいましたが。



当時の大連は、まだ町中に朝市で売ってる韮の匂いがし続けている、そんな素朴な町でした。21世紀になってから、高速道路が縦横無人に走り工場の煙が蔓延している大連の映像をニュースで見た時、どこか信じられないような悲しいような気持ちになりました。たった40日だけの中国ですが、自分の中では、素朴な人たちの魂の集まる場所のような気がしていました。中国語を教えてくださった先生方が、いつか死んでしまうとは考えられない。死なない人間なんかいるはずはないのに、この人たちがいつか死ぬんだと考えることは当時の自分にとっては極めて不自然なことでありました。それほどにまで楽園のような印象を僕は大連に対して、中国に対して持ったのでした。



留学中にある先生から太極拳を教わりました。毎朝少しずつ教わった。あまりに難しいいので、動きを分解して書いた本などないか?と尋ねると、先生は、翌日手書きで、何十もの動作を紙に描いて僕に下さいました。今ならコピーすれば一瞬ですが、随分時間をかけて写してくださったのでしょう。考えればコピーなど当時の中国では一般的ではなかったのです。感謝の思いが今も消えません。旅団が大連を離れる送別パーティの席で、その先生が演武を披露してくださいました。僕らに教えてくださった太極拳は健康維持のためにゆっくりした動きでやるものでした。そういうものとして「型」を楽しんで練習していました。しかし先生の技は、目が冴えわたるような激しい動きのものでした。比喩ではなく、龍がそこに一匹いて、炎の中で踊っているのでした。そのことは何故詩に書かなかったのだろうと、今思うと不思議です。あまりにも鮮明を極めると、それが手に負えるある一定の温度になるまで、詩は書かれ得ないのかもしれない。そんなことを思うのです。



大学の寄宿舎のようなものはきっとあったのでしょうが、短期間だけ貸し出すものはなかったとみえて、教室を幾つも開放いただき、そこにベッドと机を入れてもらってひと月以上住まいました。名古屋から来ていた同学年の大学生M君と2人で一部屋でした。広すぎて最初は変な感じでしたが、随分と気持ちいい暮らしでした。ある時、そのM君が暑いので窓を開けて寝たところ、風邪で高熱がでてしまいました。主幹の老師がジープを運転してがたがた道を病院へと走りました。後に新型コロナ報道の頃に中国の病院の映像を見た時、そうそうこんな感じだったな、と懐かしく思いました。大陸の夜風は、夏とはいえ思いの外冷たいのでした。僕は少し暑くても窓を閉めて寝ていたので風邪をひくことはありませんでした。慎重だな、と自分でも意外に思いました。友人は2,3日うんうん唸っていましたがほどなく回復しました。その彼と授業の空き時間ごとに、大学の踊り場に据えてあった卓球台で卓球ばかりしていたので、僕は1か月少しで7キロ近くも痩せました。



街では人々が歩道に出てお互いに散髪をし合っていました。僕もお願いして髪を切ってもらいました。多分お礼も何もしていない。そんな感じじゃなかったのでしょう。後にTVの歌番組か何かで目がとっても澄んだ男女-TV画面を通してみてもはっきりとわかるほどでしたが-を見た時、これはどこの国の人だろうか、と家族で驚き合ったことがありましたが、中国の人たちの瞳は丁度そんな風に透き通っているように思いました。



肝心の〈地名〉の話からは随分逸れてしまいましたが、〈大連〉という語は、当時実感した〈人間の純粋さ〉の表象として、僕の詩の中にあるような気がします。第2回で、姫路、と書くとき、自分の出発点であった京都が無意識のうちにある、と書きました。大連の場合は、空間的距離というよりも、満州と呼ばれた時間と自分が訪れた時期との時間的距離のことを強く思いましたし、三つ目の詩の中で書いているように、1983年の大連は、過去の満州と2024年現在の僕を繋ぐ結節点にもなっているのです。





平居謙