「わが地名論 第2回 姫路の中に〈京都〉あり」平居謙

2025年02月03日

「わが地名論」連載にあたって
詩の中に地名を書くこと。その意味を探ること。これは僕自身の詩集に関わりながら展開する「わが地名論」。この連載を通して〈地名とは何か〉〈詩とは何か〉を考えてゆく。



平居謙最初の詩集は『時間の蜘蛛』(1985年私家版)です。これは非常に粗末な、コピーを束ねてパンチで穴を開け、紐で閉じただけの、詩集とも呼べない詩集です。これを詩集と呼ぶことが可能だとすれば、ただ「詩が沢山載っている」ということだけでしょう。大学時代に友人と1年に1回か2回出していた「隠恋暮」という同人雑誌に発表した作品を中心にして作りました。僕は自分で第0詩集と呼んでいます。「隠恋暮」はかくれんぼ、と読むのですが、随分センチメンタルな感じのするものを作っていたもんだなあと自分ながらもちょっと恥ずかしいような気持ちがします。紐で閉じたのは、浜田睦雄という大学時代の友人が大学卒業のころ、和綴の話をしていたのがどこか耳に残っていたのでしょう。睦雄に方法を尋ねたらよかったのだけれど、彼はおそらく故郷の高知へ帰る準備で忙しく、すれ違ったような覚えがあります。それで我流でコピーに穴を穿け、書類を止めるための紐を文具屋で買ってこれを作りました。入院中だった父親に金を借りてコピーしたような覚えがある。ヒドい話です。そんな具合でしたから、ほんの一握りの友人や恩師に手渡しした程度だったと思います。



この詩集の中に登場する地名あるいはもっと具体的に「京都」に関る地名を探してゆくと、 それほどは多くありません。自分で読み返してみてどこか架空の場所が多いなと感じました。「宇宙」などの語もよく出てきます。壮大なことを書いている一方、高等学校の時代の音楽室が出てきたりというように、大学生になりたての未熟な学生という感じが出てしまっているな。あるいは「エデンの園」なんて夢のような言葉が出てきたり。何十年もの前に自分が書いたものを改めて読んでみるとそんな不思議な気がいたします。この連載では京都に限らず〈地名〉全般についてこの詩集の中から拾ってみます。



詩集中の「落ちゆく人」という詩の中に〈姫路駅〉という地名が出てきます。地名というより駅名ですけれど。さらには〈佐賀医大〉なんていう名前も出てくる。〈芥川賞〉などという言葉も現れます。この詩は詩集の頭から7番目に出てくる作品です。それまでの作品の中では具体的な地名は現れてきません。以下に全文を引用しています。平居謙、二十歳になりたての作品です。もう、ウイスキー飲んでいます(笑)。



   落ちゆく人

 俺は昨日ウィスキーをのんだ。
 のむはずもない姫路駅で飲んだ。
 何故飲んだ?すすめられて飲んだ。
 誰がすすめた?
 酔いどれがすすめた。
 どんな酔いどれだった?
 まじめな酔いどれだった。

 其人の息子は佐賀医大にいっている
 といった。
 その人の兄は電々公社の局長であるといった
 その人自身も電々公社に勤めているといった
 小学しか出ていないといった

 夜行列車をまつ間2時間ほど
 話した―否―話をきいた
 同じ話ばかりした。

 彼の兄が受賞作家だといった
 俺に芥川賞をねらうのはむりだと
 いった――何のことか?――

 文学論を言った
 否―彼は言えなかった
 しかし俺に
 もっと学生らしく文学論を
 ふり回せと言った――と記憶している

 地べたにねそべった
 先ぱいと呼べと言った
 俺を優秀な後輩とよんでくれた
 汽車が通過した
 彼は静かにしろと怒鳴った
 俺の目つきが悪いとごねた
 顔がかわいいとも言った

 俺はこの人は俺にとって
 もう一人のキリストかと
 一瞬思った。そのうちに其人は眠りこけた
 俺はそのキリストを駅において
 お前に会うために
 列車にのりこんだ          ('81.8)


   *

なぜ唐突に〈姫路駅〉かと言うと、大学1年の夏休みのある日のことですね、急に思い立ったように-もう夜の7時くらいになってたのではないかと思います-一人で出かけたくなったんですね。その頃京都の宇治にある実家に住んでいて、TVで徳島の阿波踊りのニュースをやっていた。「今から阿波踊り見に行ってくるよ」なんて僕が突然言い出したもんですから、親はびっくりしちゃって「なんでこんな時間から行くの?!」みたいに言ってましたね。親戚のおじさんもたまたま来てて「大学生ってええなあ。そんなふらりと旅行に行けるねんなあ」みたいなこと言ってたように思います。



大学生がどこかに急に行こうなんて思い立つなんて時は、大抵誰か好きな人に会いたいか、なんかそんなことしかないんですよね。徳島から大学に来てた女の子がいました。付き合ってるとかよく一緒に遊びに行ってるとか、そんなの何もないし、大して喋ったこともなかったのです。きっと彼女がクラスのみんなに「夏休み徳島に遊びに来てね!阿波踊りとかあるしい~」みたいに言ってたのを急に思い出したんだろうと思います。詩の最後に〈お前に会うために〉なんて書いてるけれど、〈お前〉でもなんでもなく純粋に一人のクラスメイトに他ならないわけです。でも〈お前〉なんて書くと恋人みたいでしょ?詩の虚構というのはいつも独りよがりなものだと笑っちゃいます。

   *

姫路駅まで行って姫路駅でそれ以上電車がなくなっちゃったんですね。姫路駅止まりで。その時確か島根に行く方向の電車にも乗れて、島根に行こうかどっちにしようかなんて迷った覚えもあります。同じクラスの可愛いコが島根にもいましたからね。

   *

この詩に書いてあるのはまあ大抵、本当のことですから、解説をつける必要もないんですが、姫路駅で寝台列車待ってたら、酔っ払いに絡まれたわけです。と言うか大学1年生で純粋だから、ホームにいた酔っ払いのおじさんが、ぐだぐだ話しかけてくるのをずっと静かに聞いてあげたりしてたんでしょうね。




詩の中にはありませんが、その酔っ払いが1万円札をくれると言うんです。「いや、僕はそんなのいらないですよ」と言うんだけどポケットに押し込もうとする。何でそんなことするのか良く分からない。それ頑なに拒んで、返そうと困っていました。そうするうちに酔っ払いは寝てしまった。もし貰ってたら、今なら〈昏睡強盗〉と間違われたりするかもしれない。当時はそんなご時世ではなかったのではありますが。でも、そのお金をもらってたらきっとこの詩は書けなかっただろうなと思いますね。まあ大体の大学生は、あるいは大人であっても、僕と同じように酔っ払いが上げるなんていうお金は返すでしょうね。中には貰っちゃう人もいるかもしれない。そしてそんなお金を貰わないことは、とっても大事な純粋さのような気がします。



地名の話に戻ります。〈京都〉という町が出てくるわけではないけれども、〈京都〉を起点にして突然に広がっていく別の世界というような意味で、この詩の中の〈姫路〉は具体的な地名でなければならなかったのだな、と今読み返したらそんなふうに思いますね。作者がある地名を書き込む時、作者の頭の中には書かれていなくてもきっと〈基点〉〈起点〉があるのだろうなと思います。この詩の場合は明らかに何時間か前突然飛び出して来た実家のある京都・宇治などがどこかに見えない形で存在している。そんなことは読者には分かりません。詩としてはそういうことを伝える構造にはなっていないからです。しかし作者として当時の実感を思い出すと、随分遠くに来た感じがしたのだと思います。その後阪神間に長く住んだので、以前より姫路への心理的距離は近くなりましたが、当時は最果感があったのかもしれない。しかも夜になってから出かけるという妙なことをしたために、現実に終点駅になってしまったわけです。結局、徳島へ行く夜行列車を待つしかなかったのでした。



ちなみにこのタイトルは、アニメーション『タイガーマスク』の最終回「去り行く虎」をどこか頭に置いて作っているんですね。孤児院に寄付するために、悪党レスラーたちと闘っていたタイガーマスクは、最後に素顔を明かされて去ってゆく。タイガーマスクに守られていた孤児院の少年少女たちが、「るり子先生、直人兄ちゃんは今度いつ来るの?」と尋ねるのに対して「直人さんはもう来ません」と先生は答える。タイガーマスク=伊達直人は永遠に去ってしまうのです。小学校の3、4年生くらいの頃にその最終回を見たのですが、当時はビデオやYouTubeなどなく、最終回はほぼリアルな意味で最終回なのでした。伊達直人がコートの襟を立てて去ってゆくそのさみしさがいつまでも心に残っていました。孤児院の子供たちと同じ思いでした。一方で自立しなきゃ、みたいな決意が、その物語からは潜在的なメッセージとして放たれていたのでしょうが、当時はそんなことは気づくはずもありません。それが大学生になって突然の夜行の旅、酔っ払い=自分にとってのキリストを駅に置き去りにしてゆくこと。そんな体験が一挙に来て「去り行く虎」と似た響きのあるタイトルをこの詩に付けたのではないかと思っています。これは後に気づいたことではありますが。若い書き手たちが漫画やアニメーションのキャラクターを登場させた詩を読むと、どこか鼻白む感覚を持ちますが、自分だって同じようなものだったんだなと可笑しく感じたりします。





平居謙