「アリの話」07 大塚ヒロユキ
日が傾きはじめた頃、突然、風向きが変った。
峡谷を取り囲む尾根に霧がかかり、気温は急激に下がっていく。ロープの裏側にいるアリの頭上を流れている川も、今では霧に覆われてしまい、水音さえも仮想現実的な歪みを帯びて聞こえてくる。
数分前まで熾烈な熱波を放っていた太陽は神隠しにあったように消えてしまった。アリはロープの上に這いあがり、五感を研ぎ澄ます。すでに視界は360度、真っ白い霧に覆われている。
触角を頼りにアリは歩きだす。暑さで渇ききったアリの身体にとっては救いの霧である。今のうちに距離を稼いでおこうと思い、アリは足を速める。かつてない程の快適なペースでロープをつたっていく。
触角が何かの気配に反応し、アリはふいに足を止めた。重苦しいほどの威圧感。すぐ目の前に何かがある。いや、いる。こちらに近寄ってくる。
突如、目の前に大きな目玉が浮かび上がった。左右に離れた目玉が交互にアリを覗き込み、黄緑色の巨体をアリの背中に浴びせてきた。
アリは数歩さがり、身構えた。
目玉の巨体の鼻先から、奇妙な形状をした二本の黄色い角が飛び出した。
アリは牙を開いて威嚇のポーズをとる。
「お前は何者だ!」
目玉の巨体も驚いたらしく、背中を波打たせて後退りした。
「わたしアゲハ蝶の幼虫。ここで生まれ、ここで育ったの」
アゲハの幼虫に敵意がないことを察すると、アリは牙を閉じた。アリが自らの意志で威嚇のポーズをとったのは初めてのことだった。
「あなたどうしてここにいるの?」とアゲハの幼虫は言った。
僕はなぜここにいるのだろうか。
霧に視界を奪われているせいか、アリ自身その言葉に戸惑ってしまった。でもすぐに我に返って言った。
「僕は以前にいた世界から抜け出して、この峡谷に来た。ここで壊れかけた吊橋を見つけ、決めたんだ。橋の向こう側にある世界をこの目で見てやるって」
アゲハの幼虫は、首を小さく傾げたり、顎を引いたり、背筋を伸ばしたしていた。
「わたしにはよくわかんない」
幼虫の身体はヘビに擬態していた。左右に目玉が描かれた黄緑色のマントを羽織り、その端はレース模様で縁取られている。
「君にはこれから色々なことが起こる」とアリは言った。「今は信じられないだろうけど、やがて空を飛べるようになる。大きくて美しい羽だって生えてくるんだ」
幼虫は上体を起こしたまま、霧の中で傾いた塔のようにじっとアリを見下ろしている。
「あなたの言ってることはやっぱりわかんない。でも…」そう言いかけた時、鼻先の黄色い角がぴゅうっと引っ込んだ。
「でも応援する」
幼虫は口の左右にある黒い砂粒のような、本来の目でアリを見ていた。
「君が素敵なアゲハ蝶になっても、僕のことを覚えていてくれるかな」
幼虫は頭を低くしてアリに目線を合わせる。
「あなたに会いに行っていい?」
思いがけない言葉に、アリは頬を赤らめた。
「いいよ、約束だよ」
「わかった、約束ね。わたしの名前はフローラベル、あなたは?」
「僕は…」ふとアリの頭の中にその名前が浮かんだ。
「エイリアスだ」
アリは初めてその名前を口にした。
「エイリアス? 素敵な名前」そう言って幼虫は顔を上げ、胸元で小さな手を合わせた。
「気をつけてね、エイリアス」
「ありがとう、フローラベル」
アゲハの幼虫に別れを告げたアリは、再び霧の中を進んでいく。彼女と言葉を交わしたことで、身体に溜っていた疲れが抜け落ちたような気がした。
彼女との約束が果たされないことをアリは知っていた。幼虫からサナギになる過程で、彼女はそれまでの記憶を封印してしまう。アゲハ蝶となって空を舞う頃には、幼虫の時の約束など、それ以前に、自分が幼虫であったことさえ覚えていないのだ。
それでも、彼女が口にした言葉がアリを勇気づけたことは確かだった。