「オープンで希望がある詩―――あられ工場詩集『ひなの巣』について」ヤリタミサコ
『ひなの巣』というタイトルの詩集は、それだけでどこか手触りが暖かい。弱い者に優しい感じだ。あられ工場というペンネームの詩人の詩集は、あられの吹き寄せのイラストがポップに散らばっている装丁で、奥付も食品成分表の形式だ。米から作られた庶民的なお菓子のような詩集、というたたずまい。
「台風の朝に」という詩では仕事場の昼休みに、小川を泳ぐカルガモにパンくずの餌を投げる人がいるのだが、双方のタイミングが合わなくてカルガモがパンくずを食べられない光景が描かれる。そうして作者は「世界はそんなものかもしれない/工場の昼休みが終わるから立ち上がる」と、喜怒哀楽のどこにも分類できない自分の気持を無理に納得させず、そのもやもやを抱えて仕事に戻る。以前、作者はベルリンに行こうとして行けなかったとも書かれている。果せなかった思いは、小さく尾を引く。そして「ベルリン 天使の詩」という映画の記憶を思い起こす、大雨の日。
バスの中でベルリンの空を想う
小さな天使が東323系統のバス上空を
大雨の中飛ぶ
(…)
天使が小さく頷き
バスは再び青い橋を渡り
別れを添える
現実のリアルな日常生活というのは、劇的ではない。が、薄く傷つき、少しだけ笑い、ほどよく調子を合わせながら、ズレを意識しつつ触れすぎないように過ぎていく。様子見という放置状態が無難なのかもしれない。台風の湿度で結露するバスの窓を見ながら、ベルリンの曇り空を思い浮かべる作者は、感情の起伏を日常の幅に整え、ベルリンという心の中の別世界を大事にしている。
「川へ行く」という作品は静かなトーンで書かれているが、テーマは重い。大きく解釈すると、死と再生だ。「割れたせんべいや欠けたあられ」を「散骨するように橋の上から撒く」と「白いせんべいが散らばる」。「鳥たちが見つけて近寄る」と「追いかける鳥も、せんべいも橋の下へ吸い込まれていく」。その様子を見ながら、「少しずつ年月は流れる/けれど、ひなあられは毎年同じではない」と思い至る作者。せんべいは世界から一度失われるが、その後、また違うスタイルのひなあられが再び生まれ出る。諦念を伴う慨嘆だ。再生のための死なのか、死ゆえの再生なのか。
そしてこの詩集の注目するべき点は、作品の最後の行がオープンに設定されていることである。かすかな明かりや希望が込められた、開かれた詩。前述の「川へ行く」の最終行は「帰ったら体を拭いてスープを飲もう」と、リスタート=リボーンの行動だ。一般的にはストーリーの終わりの宣言のように、クローズ傾向で終わらせる詩が多いが、この詩集では、ほとんどが未来へつながるオープンネスだ。「今日も仕事が始まる」(「ひなの巣とうさぎ」より)、「カエルの絵を描く」(「ひなの巣 初夏」)、「飲みたいな」(「ソーダの気泡と金平糖」より)、「今日も切る」(「ヤマさんのこと」より)、「突然答えが分かったりするもんだよ」(「新しい一年」より)など。意図されていないようだが、自分と読者を小さくエンパワーメント(小さく!)している。
詩に限らず、作者がどういう人間であっても創作物が優れていれば文学として素晴らしい、というのが私の持論だが、この詩集に関しては、作者の人間性の深み、包容力、ヒーリング力、明るさが詩の最終行に表出していると言わざるを得ない。技巧を凝らさず、外界からの刺激に引きずられず、他者からの視線を意識せず、日常的生き方が作り出す魅力。あきらめるというやり方で人生を肯定する人の、弱い強さだ。