「サッコとヴァンゼッティ」奥主榮
一
僕が、角川文庫の「死刑台のメロディ」(ハワード・ファスト、藤川健夫訳)という本に出会ったのは、中学二年のとき(1972年)であった。この本は、アメリカ史上名高い冤罪事件であるサッコ・ヴァンゼッティ事件を扱った一冊であり、当時公開された伊仏合作映画「死刑台のメロディ」(監督ジュリアーノ・モンタルド)という映画の原作本として売られていたと思う。
この時期、角川書店はまだ映画製作には乗り出しておらず、ただ文庫本に映画原作の本が多いことでは他社との差別化を生んでいた。いわゆるアメリカン・ニュー・シネマを中心として、角川文庫からは「イージー・ライダー」や「小さな巨人」、「ウィラード」「愛の狩人」といった作品が出されていた。小遣いの乏しい中学生にとっては、文庫本一冊分の値段で映画の内容が味わえるというのは、何だか得をした気分になれたのである。そういえば、中一のときに同級生の女の子が貸してくれた「クリスマスツリー」という小説も、映画化されたような雰囲気の作品だった。(この小説のアイディアの一部は、夭逝した女性漫画家、三原順氏の漫画「X-Day」に流用されている。)
サッコ・ヴァンゼッティ事件が起こったのは、大正9年、冤罪によって処刑されたのは1927年(昭和2年)。関東大震災による、大杉榮氏・伊藤野枝氏・橘宗一氏の惨殺事件を挟む時期である。サッコとヴァンゼッティは、死刑判決を受けた理由である強盗殺人ではなく、彼らが反米的な思想を持っていたから処刑されている。僕が、何回か書き進めてきた大杉氏らへの甘粕氏の事件の、いわばスピン・オフのような原稿として、この事件について書いてみたい。
二
中学二年生だった僕は、冤罪によって人が追い込まれていくことの惨たらしさを、この一冊の文庫本から学んだ。幼いころからいじめられっ子だった僕は、「こいつには何をしても構わないんだ」と思い込んだ連中の暴力がどれほど怖ろしいものかを、肉体的な感覚として受け止めていた。だから、おぼえの無い犯罪の加害者となることを強要され、処刑へと追い込まれていく二人のことが、他人事ではなかった。(ちなみに、当時はまだ「いじめ」というのは可視化され)ておらず、だからこそ暗黙の了解の内に行われていた暴力被害が、僕には怖ろしかった。そうした恐怖を可視化してくれたのは、むしろ藤子F先生の「やすらぎの館」のような(今ではF先生の中では、ダークと分類される)作品であった。
冤罪事件によって生命を奪われる二人の物語。要約すればそうなるかもしれない。その思想のために、身に覚えのない強盗殺人という、いわば汚名を着せられて殺される、二人の人間。
ある意味では、二人を殉教者として扱うような物語のページをめくりながら、僕が感じていたことは、こんなことだった。
この本の中には、二人の無罪を信じて、救援活動や不当判決に対する抗議活動をされる方々の姿が描かれている。けれど、僕は何かの不正を知りながら、第三者としてそれに立ち向かうことが出来るだろうか。そんな気持ちを、夏休みの宿題の「読書感想文」に綴った。
自分の心の中でたまり切った気持ちというのを、どこかでガス抜きしておかないと怖かったのである。だから、そんな文章を書いた。
自作の詩と一緒に夏休み明けに国語教師に提出した。気分としては、どうにでもしやがれというものであった。案の定、提出した詩をちらっと見た教師は、「子どもには詩は」と口にした。しかし、数日経って僕の詩は、丁寧に清書され、学校校舎の廊下の壁に貼りだされた。人だかりができ、一所懸命に筆写している生徒もいた。
どうしようもないぐらいの劣等性だった僕は、自分が評価されるという経験を初めてした。
たどたどしいだけの「読書感想文」に対しては、国語の先生が丁寧な添削を加えてくれた。冤罪事件の背景について(アメリカで禁酒法時代に行われていた思想弾圧)は無知であった僕は、分かっていないことをうまくまとめてくれているなと思って、筆写した。ただ、「これから先、辛いことがあったら本を読み返し、正しいことを貫く勇気を得たいと思う。」という、書き足された結末だけはどうしても書き写すことができなかった。添削を採りいれながら書き進めていくうちに、後半ではさらに自分が毎日の生活の中で不正と感じたことに目をつむってしまうこともあること、そうならないようにすることはとても難しいことについて書いてしまった。
先生からは、みんなの前で褒められた。その上で、僕が描き直した感想文の末尾に、やはり希望に満ちた言葉を添えた提案をされ、「読み比べてみたいから、こちらも清書してみてくれ」と言われた。読み比べた結果だろう。希望に満ちた結びの原稿の方が、コンクールに提出された。その読書感想文が東京都中野区のコンクールで受賞し、その後に感想文のまとめられた小冊子が届くまで、僕は希望に満ちた終わり方をした文章がコンクールに提出されていたことを知らなかった。
あるいは、僕の望む結末の文章では受賞などは在り得なかったかもしれない。「死刑台のメロディ」の感想文は、区での受賞の結果、東京都のコンクールにも提出されることとなったが、そこでは賞を受けることもなかった。
僕の中には、自分の文章ではない感想文によって受賞したことの苦さと、それ以上の受賞がないことに安堵する気持ちがあった。同時に、サッコ・ヴァンゼッティ事件の折に、世渡りの為に偽証を行った方々の行為と、他人が書いた文章を引き写した部分がある感想文によっての受賞を拒めなかった自分の行為との間に、どれほどの差異があるのだろうかという苦い思いが残った。自分の書いた原稿ではないことを知った時点で、表彰状を返上することだってできたはずなのだ。
三
1971年制作の伊仏合作映画を、僕は後にテレビ放映で見たような記憶があった。しかし、画像が修復された作品を映画館で見て、初見であったことに気がついた。音楽を担当したエンリオ・モリコーネの再評価によって、再公開されたようである。(ジョーン・バエズが歌う挿入歌や主題曲のシングルは、中学の頃によく聴いていた。)
とても巧みな構成の映画であった。
冒頭、国家によって労働者の権利を守る活動などが暴力的に弾圧された時代背景が描かれる。この辺り、少し欧米の国家という認識に関して説明をしておきたい。
欧州(ヨーロッパ)においては、例えば学問というのは国家から独立した存在であり、国家からの制約を受けないという考え方がある。一方、米国(アメリカ)においては、学問もまた国家による管理下に置かれるべきだという考え方がある。これが顕著に表れたのが、1960年代のスチューデンツ・ムーブメントの折である。欧州の大学では、警察の大学への介入は最悪の事態とされた。一方、米国の大学では警察の大学への介入は容易に許された。
この、「最上位の権威を与えられたものが、あらゆる場へと介入していく」というのは、実は中世の宗教裁判と、余り変わりはない。その背景にあるのは、「社会制度維持の為に、制度を支えると思える方々の生活を優先的に保護しよう」という発想である。保護される内部にあれば、とても都合の良いものであり、そこから取りこぼされる人間にとっては、たまったものではない。
少し視点を広げて考えてみよう。
フランス革命の折に、「自由・平等・博愛」の対象とされた方々が誰であったか、言い換えれば人間として扱われたのが誰であったかについて考えてみよう。実は、この時点でそうした理念の中で、人間扱いされていたのは、「白人の、健康で、裕福な、(既婚の)男性」という範疇であったのである。そこから零れ落ちるものは、憐憫の対象として救済を与えるという発想の対象でしかなかった。人道主義とは、そうした差別を背景として成立するという側面を持っている。
排除するものと、排除されるものを前提とした社会構造。それは、現在も確固として在り続ける。呆れたことに。
そう、「人権」とは既に獲得されたものではなく、形骸ではなく私たちが現在獲得しようと模索しているものなのである。その自覚もないままに、安易に自分が保証された存在であるなどと思ってはならない。
まだ、あらゆる一人は差別という牢獄の中にいる存在なのである。
ここでの論議とは異質の話題のようになるが、最近再公開された2001年のアメリカ映画「ゴーストストーリー」について、少し触れておきたい。問題児に分類されるような女性イーニドを狂言回しにして描かれた映画である。この映画の中で、過去に使われていた差別的なアイコンに関する話題が描かれる。
高校を卒業して、進路を決めかねているイーニドは、かなり悪質な行為を繰り返す。そうした中で出会った1950年代ヲタの男に興味を持ってしまい、部屋に入り浸るようになる。ある時、ファストフードのチェーン店が1950年代に使っていた、現在では差別的と弾劾されるようなアイコンを、その男の部屋で見つけ出す。イーニドは最初、そうしたポップを所持しているヲタの男を、差別主義者(KKK)かと問いただす。そうした会話の中で、1950年代に確固として存在していた差別感情は容認されるべきではない。しかし、差別が行われていたこと(差別的なアイコンが作られたこと)を葬り去ることが、実は差別を無かったことにしているだけではないかという問題提起が浮上する。
卒業後も、単位不足で美術の授業の補修を受け続けているイーニドは、過去にある企業が使用していた、戯画化された(歪曲された)黒人のポップと出会う。現在では使用不可能なそのアイコンに衝撃を受けた彼女は、あえてそれを課題として提出する。差別的な描き方が周囲の反感を買う中で、それを提出した意図を問われた彼女は、「自分たちの中に隠されている差別感情について考えるきっかけを作りたかった」と返答する。差別そのものが隠蔽されているだけなのに、なかったことにすることで差別を見えないものとしてしまうことへの疑念を抱いたのである。
晶文社から刊行されている、「世の途中から隠されていること―近代日本の記憶」(木下 直之)には、忠霊碑のようなモニュメントが時代背景によってどのように塗り変えられていくかが、多数の例を挙げて分析されていく。
「ゴーストストーリー」に出てくる、企業が平然と利用していた差別的アイコンのエピソードは、差別を、あたかも最初からなかったもののように扱う社会に対する、痛烈なアンチテーゼであると同時に、とても繊細な問題を扱っている。なかったものとされることで、自分が直接・間接に苦痛を受けた相手の存在から回避できる方々も、確実に存在する。同時に、被害を受けた誰かをなかったことにすることで、周囲から酷い扱いを受けた自分の存在を否定されたように感じる方々も存在する。人間の存在が、何かによって規定されることから生じる問題。繊細であり、けれど一か所の価値観からあれこれ述べるのではなく、可能な限り多元的な視点から見すえなければならないことでもある。
かつて、ジャーナリストの宮武外骨は、特定の人間に対する差別が公然と行われていることに対して憤り、あえて自分をそうした差別されている地域の出身者であると公言した。(しかし、これは実は、事実と反する。) しかし、こうした自分がいわれのない非難を受けかねない抗議活動も、現在では詳細に語ることがタブーとなっている。宮武が実在の「被差別地域」の名称を挙げたことが問題視される時代になったのである。(この辺りの問題、鳥取ループの問題などとも絡めて、詳細な検討がなされた方が良いのではないかと、僕は思っている。結論を出すことのできない問題にも思えるけれど。) ただ、どのような「正論」を述べようとも、謂れの無い差別に晒され、不要な精神的苦痛を味わい続けてきた方々の心情を見失ってはならない。私たちの誰もが、傷つきやすく無力な存在であることを見すえて、考えていかなければならない。それは、確かであろう。
四
社会から冷遇された方々の存在を、あたかも最初から無かったもののように扱う立脚点もあり得る。それは、余りにも悲惨な状況を次世代へと語り継がないための配慮という側面も持っているのかもしれない。冷遇された立場の方からは、今さらことさらな騒ぎを起こして欲しくないという心情もあるのである。
そうした気持ちは、尊重されなければならない。けれど、その一方で、確固として在ったことを無かったものにしてはならないという視点も在る。しかし、僕はそうした立場を肯定しない。抵抗を訴えたい。一介の「権威否定主義者(アナーキスト)」として。僕らはどれほど、過去のしがらみを乗り越えることで、一人の個人へとたどり着けるのであろうかという自分の在りように固執する。
それは、道化ではないはずである。そう、僕は思っている。
にゃはは、人は正しい存在になるために生きているのではない。確固とした自分になるために生きているだけのことである。
映画「死刑台のメロディ」の中で、観ているものの胸に迫るシーンの一つに、冤罪で処刑されたニコラ・サッコが徴兵を忌避したことが法廷で問われるくだりがある。貧しさから逃れるためにアメリカへと移民し、しかし言葉は不自由で、貧しい生活が続いていた。そうした中で、「誰かを殺したくない」という思いから、徴兵の時期にメキシコへ逃れてしまう。しかし、その行為が「反米的」であると検察官から追及される。そんなサッコが、冤罪判決の後に心を病み、そうした苦悩の後に、子どもらへ手紙を書き残す。
この手紙、中学時代に読んだ本にも引用されていて、とても心を打たれたのを覚えている。そういえば、書籍の方では、日本でも不当判決に対する抗議運動が起こっていたと書かれていたけれど、そうした抗議活動には大杉や伊藤も参加していたのであろうか。
僕は、自分の出した結論を押し付けるのではなく、自分が不完全な存在だからこそ、今の自分はこんなですよと、それだけのことを語り続ける愚か者で居続けていたい。
いや、自分が素晴らしい結論に達したから、これを周囲にも分かちたいとか思ってしまったら、そんな傲慢で鼻持ちならない態度はないであろう。僕の逡巡を、時間の無駄と受け止める方々は、タイパとやらが最良な快適な人生を謳歌すれば良い。僕はそれを否定しない。
僕は、ぐだぐだと訳の分からないことを語り続ける、厄介な爺で構わないのである。
2024年 5月 10日