「ファミコンの天才」コナン
子供の頃に同級生からファミコンの天才と呼ばれていた。
対戦型のゲームで負けることがなかったからだと思う。
当時は手先が器用でいとも容易く完璧なプレイが出来た。
まるで完璧であることだけが普通のことであるかのように。
『スーパーマリオブラザーズ』は目を閉じたまま全面クリア出来た。
敵の出るタイミングが一定なので音だけ覚えれば良かった。
BGMのこの部分で敵が出るのでジャンプで避けるとSEが鳴る。
そのBGMとSEの組み合わせを覚えれば避けるタイミングが分かる。
『オバケのQ太郎 ワンワンパニック』を初見で全面クリアした時には気味悪がられた。
僕自身も何故そんなことが出来たのか分からず自分で自分が怖かった。
いわゆるゾーンに入ると無意識的にそういう不思議なことが起こる。
今でも無意識を上手く操れるとごく稀にスーパープレイが出来る。
『オホーツクに消ゆ』や『女神転生』などをファミコンで一緒に遊んだ同級生がいた。
その彼が後に有名なゲームクリエイターになっていることを暫くして知った。
僕自身もゲームクリエイターを目指してゲーム会社3社でバイトした時期がある。
デバッガー、テストプレイヤー、ケータイアプリの開発などをやっていた。
しかし色んな問題があって身を結ぶことはなかった。
今にして思えばファミコンの天才は彼のことだった。
僕は天才ではないからそれに気付かなかったのだ。
天才のことは天才にしか分からないとマックで天才が言ってた。
面識のある人が大成功したのはゲームクリエイターだけではない。
飲み会で会った小説家が後に芥川賞を受賞したこともある。
一時期の僕の行動範囲が異常に広かっただけなんだけど。
それで分かったのは僕らの住むこの世界が狭くて遠いこと。
近くにいる気がしても実際には途方もなく遠い。
飛行機で世界中に行けるのと同じだ。
飛行機に乗れる人にとって世界は狭い。
飛行機に乗れない人にとって世界は遠い。
画面の向こう側に広がるゲームの世界もそうだ。
最近のオープンワールド型のゲームはどこまでも行ける。
そんな気がするだけでプレイヤーの体はどこにも行けない。
どこにも行けないからこそどこにでも行けると思いたいのだ。
狭くて遠いのはこうして思い出している過去の記憶も同じだ。
同じことばかり思い出すのに決して戻ることは出来ない遠い記憶。
決して戻れないと知っているからこそきっと戻れると信じたいのだ。
狭くて遠い記憶の中で僕はファミコンの天才だった。