「フォークやロックについて僕が知っているいくつかのこと(1)」奥主榮
連載 第1回
はじめに
僕は、1959年(昭和34年)生まれである。余り、芸能関係のことには興味を持たずに育ってきた。中学に入った頃(1971年)、偶然見たテレビ番組がきっかけとなり、流行歌と呼ばれる音楽に興味を持つようになる。当時、「フォーク・ブーム」と呼ばれるような時代で、既成の流行歌に対して、自分で作詞作曲した歌を奏でる歌手が次々にデビューしていく時代であった。
ただ、そうした時代の中で、いくつかの反目があり、いろいろな錯誤があった。それは、今思えばフォーク・ソングという分野を、売れるとか売れないには関わりなく自分の表現手段として選んだ方々と、流行に乗ってきてカッコ良いスタイルだから選んだ方々との反目であったように思える。そうした亀裂は、「フォークは売れる」という状況の中で、本来であればフォーク・シンガーではなかったような立場の方々までがフォークとして売り出されるという1970年代半ばから生じたものではなかった。実は、フォーク・ソングと呼ばれる歌が日本に受け入れられた、ごく初期の時期から生まれていた齟齬であった。
そうしたことに関して、ただ「流行歌と少し違うフォークが大好き」みたいな感じでいた僕が、あれこれ受け止めたことを、これからの連載で少しまとめてみたいと思う。
今、当時のフォーク・ソングに関して動画や証言を探っていくと、昔のフォーク・ソングを特集したテレビ番組の中で「マイク真木なんて」と口にする小室等氏の動画が見られる。また、1970年代に大阪で「春一番コンサート」を開催し、1990年代になってから再開した福岡風太氏の、「まさか(再開後の)春一番コンサートに森山良子さんを呼ぶとは思わなかった」という姿を見ることができる。
日本のフォークソングの初期の作品とされる、浜口庫之助氏の作詞・作曲になる「バラが咲いた」(歌はマイク真木氏による)も、森山良子史によって歌われた「この広い野原いっぱい」も、けして悪い歌ではない。しかし、それは別な立場から「フォーク」に関わった方々からは、何か別のものとして扱われるような雰囲気が、1970年代初頭には、まだ存在していた。
こうした亀裂が「フォーク・ソング」の中で生まれたのは、理由がないことではなかった。それは、日本の芸能界においての、欧米での流行の受容の仕方とも関わりがあった。ただし、僕は音楽評論家ではない。誤謬があれば、適宜指摘していただければ修正しながら、稿を進めていきたい。
1 日本での欧米の音楽の受容(1)
1970年代(昭和40年代後半)まで、基本的に、日本のレコード会社は、分業システムを確立していた。レコード会社に雇われている作詞家、作曲家、演奏者にそれぞれの役割が振られ、その中で「歌手」は、ある意味では与えられたキャラクターを演じているだけであった。それぞれの特性に合わせて、レコード会社が売り出したいイメージを具現化すれば良いだけのように扱われていた。(それはそれで、一つのプロの在り方であり、けして否定されるべきものではない。) 当時、欧米での流行歌のカバーもしきりに売り出されていた。これに関しては、おそらく素人くささが低く見られていた当時の価値観から、コピーではなく立派なカバーと呼べるようなものであった。
「VACATION」「ロコモーション」「素敵なタイミング」などの、米国でのヒット曲は、日本でも流行るように翻案されて商業ベースに乗っていった。(これらの歌詞を日本語に訳した方々についても、もっと目が向けられて良いと僕は思っているし、専門的に研究されている方々もおられる。) また、そうした明治以来の「翻案文化」について、文学・音曲といった分野を問わず、広い視点からの検証が行われている。
アメリカで、「フォーク」が流行り始めた時期、そのスタイルを日本向けに翻案した楽曲を、レコード会社所属の作詞家、作曲家が作りだした。そうした中で生まれたのが、「バラが咲いた」である。
しかし、アメリカでの「フォーク」は、元々移動労働者の中で歌い継がれてきたものであった。働いただけの賃金を受け取るという、かつかつの生活の中で、働き場所を転々とする労働者の中で、歌われたり、耳を傾けられてきた歌であった。代表的な歌い手は、ウディ・ガスリーや、その後継者たちであったという。それらは、自然発生的に生まれた歌であり、戦略的な売り方などとは無関係なものであった。ただ、そうした音源を記録したいと思った方々によって、記録(レコード)されていった。
興味深いのは、明治時代に大道芸人の豊年斎梅坊主氏や、時代は下り添田唖然坊氏の声をレコードに残した方々がおられたことである。当時としては、「たかが」という下賤の芸能であったはずである。そして、これはおそらく初期のアメリカン・フォーク・ソングも似たような状況であったろうと思う。たかが大衆芸能や大道芸で、記録する価値もないと思われていたものに価値を見いだした方々が存在した。
1960年代の初めに、アメリカ東部での、上品な学生たちによって歌われる、一見口当たりの良い流行歌と思われていたフォーク・ソングは、そうした背景の中で醸し出されたものであった。けれども、さほど華やかさも感じられないウディ・ガスリーのような歌手は、日本に翻案するような価値はないものと受け止められた。実は、東部の裕福な学生たちが、ともすれば政府の統制を受けかねない自分たちの気持ちをどのように伝えたら良いのかという中で選んだ表現手段が、フォーク・ソングという側面もあったのである。始まってしまったベトナム戦争への、今ではささやかと思える反戦感情も、そこには込められていた。
そうした、ハーモニーを中心とした、美しい歌。それを日本に翻案しようとしたことから、日本のフォーク・ソングは始まっている。
日本ならではの分業システムによって生み出された、作り物の歌のように見えた浜口庫之助氏の作品に対して、強い拒否感を抱いたのが、黎明期のロック・バンドであるジャックスのリーダーであった早川義夫氏であった。ジャックスのセカンド・アルバムに、ロックンロールの名曲の一つである「ロールオーバー・ベートーベン」をもじった、「ロールオーバーゆらの助」(この曲をカバーした岡林信康氏は、タイトルを明確に「ロールオーバー庫之助」と記している)を歌った。
ここで挙げた、ジャックスや岡林信康氏にかんしては、この連載を進めていくにつれ、日本のフォーク・ロック史の中での立ち位置を詳細に分析していくことにしている。
森山良子史の存在は、そうした分業化システムからは抜き出でたものであった。「この広い野原いっぱい」は、旋律は森山史の自作曲である。ただ、もっと自分たちの生活に密着した、文字通りの生活歌(フォーク・ソング)ではないと違和感をおぼえた方々も生まれてくる。誰が先駆者であったのかを、僕は知らない。尻石友也氏? 真崎義博氏? 小室等氏?
そんなことは、どうでも良いのだ。フォーク・ソングを民衆の歌として取り戻そうと考えた方々は、やがて「関西フォーク」と呼ばれることとなる。そうした運動の中で、多くの優れたアーティストが脚光を浴びることとなった。
その中には、アメリカでの音楽の、日本での受容を理解されている方々もおられた。フォーク・ソングという分野に囚われるのではなく、きちんとその精神を受容されることを願った方々である。
そうした中に、「消えない顔」という一曲がある。たしか、元々はメジャーのレコード会社から出された曲をカバーしたものである。その歌は、日中戦争の中で捕虜を惨殺した男の苦しみを歌っている。戦後のある時期まで、そうした体験を背負われた方々は、世の中にごまんと存在した。ある意味では、市井の生活者の苦しみを活写した作品であった。
戦時下に平然と加害者であった日本人という存在を、明確に描いた一作である。戦争の実体験者がおられた時代には、そうした作品が描かれていた。ちなみに、歴史捏造主義者(「修正」という言葉は不適切なので、僕は「捏造」という言葉を用いるようにしている)が声を大きくし出したのは、戦争を体験された方々が徐々に鬼籍に入られていく時代(1980年代以降)でもあった。
まだ、戦争が「自分の体験」であった時代に歌われた、メジャー・マイナーな曲に関する検証も含めて、表層的ではない日本の、フォークやロックに関する話題を、僕の詩っている限りでまとめていこうと思う。僕の知識が及ばない境域。そこには僕の誤認もあるに違いない。また、拙い興味の届かない範囲。そうしたものが存在していることは、熟知した上である。取りあえず今、僕は僕に書き残せる限りのことを、語り残すことができればと、そう思っている。
(本文中、基本的に日本人の人名に関しては、男性は「氏」、女性は「史」という敬称を付すこととする。この語尾、欧米の方々に対しては、非常な違和感が生じるので、省略することとする。)
2024年 5月 11日