「フォークやロックについて僕が知っているいくつかのこと(2)」奥主榮

2024年07月10日

連載 第2回

   (承前)1 日本での欧米の音楽の受容(2)

 前回、アメリカでのフォーク・ソングのブームを受けて、日本でもそれを受容する形でフォーク・ソングという言葉が使われるようになったという話を書いた。それに関連する話をもう少し詳しく書いておきたい。

 アメリカでのフォーク・ソングの存在には、前回にも述べたようにウディ・ガスリーという存在が大きく関わっている。ただ、そうした他国での、文字通りの民衆の歌(フォーク・ソング)に僕はそれほど詳しい訳ではない。むしろ、僕の世代では、ウディの子であるアーロ・ガスリー(彼もフォーク歌手である)が関わった映画「アリスのレストラン」の方が親しみがある。

 東西の壁が崩壊する以前のドイツを舞台にした映画に、「グンダーマン 優しき裏切り者の歌」という作品がある。労働者の仲間であり、毎日の作業の後で仲間たちに歌を歌い、支持されていた男を主人公としている。けれど、その映画では、誠実な男がその裏で、秘密警察への協力者であった姿を丁寧に描いていく。かつてヤスパースだったかは、誠実であること、知的であること、ナチ的であることを、三者両立しえない立場として論じた。しかし、この映画はそうした一見相容れないように思える三元論が、現在は既に崩壊することなく確立しているのだと活写しているようだとも、僕は受け止めた。僕らは、知的であり、ナチ的であり、さらに誠実であることが可能な多様性の中に生きている。
 閑話休題。

 僕が初めて触れたウディ・ガスリーの歌は、中学時代の学校の音楽教科書に出ていた「我が祖国」という一曲である。「この国は/僕の国」で始まる歌詞であったと思う。まだウディの名前がピンと来ていなかった僕は、「なんて厭な(大政翼賛的な愛国心教育の)歌詞だ」と感じた。けれど、けしてそうした意図のものではなく、移民国家である合衆国への自ら讃えた歌であった。その歌詞の一部には、レッド・パージによって規制されるような要素も含まれていた。
 成人した後では、ブルース・スプリングスティーンがこの歌を熱唱しているのを聴いたこともある。そうした意味で、ウディは、まさにアメリカの国民的歌手とも呼べる存在であり、その拠り所をきちんと追求した人間である。当然、薫陶を受けた歌手も多く存在する。
 ランブリン・ジャック・エリオットがその一人である。僕がジャック・エリオットの名前を初めて知ったのは、中学生の頃に友部正人氏の歌によってであった。ジャック・エリオットがボブ・ディランの「くよくよするなよ」をカバーしていることから、僕はジャック・エリオットの方がディランより若いのだと長いこと思い込んできた。が、ジャックはウディ・ガスリーと一緒に活動していたこともあるそうで、こちらの方がディランに影響を与えている。
 ボブ・ディランは晩年のウディに会い、デビュー・アルバムに「ウディに捧げる歌」を収録している。彼らの歌い方は、いわゆるギターの弾き語りで、ぽろぽろと鳴らす音色に合わせて、朴訥とした歌い方をしている。後にディランが、ザ・バンドをバックにフォーク・ロック路線へと転換したときに反発をくらったのは、そうした背景があったのかもしれない。あくまでも素朴で伝統的な歌い方を、国民的歌手の継承者に求めたのかもしれない。

 伝統的な歌唱を、素朴な歌い方ではなく、洗練されたハーモニーで歌われた方々もあった。ブラザーズ・フォー、キングストン・トリオ、ピーター・ポール&マリー等である。彼らが取り上げた曲の一つに、ピート・シガーがいた。ピートもまた、ウディ・ガスリーと並ぶ大御所である。同時に、その政治的な主張によって、一時期はテレビ出演を禁じられていた。(アメリカのテレビ番組「セサミ・ストリート」が、NHKで放送されるようになったのが、僕が中学校に入学した1971年。番組に伴う英語教材として書店で売られていた冊子の中で、ピート・シガーがテレビ出演を許されたという記述を読んだ記憶がある。)
 ピート・シガーの代表作は「花はどこへ行った」。この曲は、森山良子を初めとして、新谷のり子、忌野清志郎らによってカバーされている。歌詞の内容の大意は、こんなものである。
 咲き乱れる花は、少女たちに摘み取られていった。その少女たちは、若い男たちに嫁いでいった。その若い男たちは、戦場へと駆り立てられた。そうして墓場へと葬られた。その墓地には、花が咲き乱れている。その花たちを少女たちが摘み取っていく。
 内容がループすることで、いつまでも続く戦争の連鎖の虚しさが描かれるのである。「いつになったら、人は学ぶことができるのだろう」と、くり返されるフレーズが哀しい。また、このような循環構造は民話などにもしばしば見られるものである。
 今となっては、この程度の間接的な表現を続けているだけでも「反米的」との烙印を押され、テレビ出演を禁止されたのであろうか。けれど、1960年代、当時は娯楽音楽の発信元であったモータウン・レーベルの歌手たちでさえ、ツアーのバスに実弾を撃ち込まれる時代だったのである。

 もう一人、アメリカのフォーク史の中で忘れてはならない存在がある。女性歌手のジョーン・バエズである。ちなみに、森山良子史はデビュー当時、日本のジョーン・バエズと呼ばれた。

 日本で、アメリカでの流行歌として受容される以前に、アメリカのフォーク・ソングというものがどのような存在であったのかを、簡単にまとめたてみた。ここでは、歌が背負う背景などは無視した、また、日本の「分業システム」によるフォーク・ソングの受容は、歌をその背景となる社会から切り離したものとして扱った。

 そうして、齟齬が生じていった。
2024年 5月 24日





奥主榮