「フォークやロックについて僕が知っているいくつかのこと(4)」奥主榮

2024年08月18日

連載 第4回

   2 1960年代という時代(1)

(※連載の第一回に、敬称に関して男性は「氏」、女性は「史」で統一するとした。それは、僕が子どもの頃から触れてきた各種の文章での慣例に習ったに過ぎない。しかし、最愛の妻から「(男女で敬称を分けることには)気持ち悪さを感じる」と批判され、確かにその通りかもしれないと思い直し、敬称は氏に統一することにする。)

 日本にフォークソングやロックが受容され始めた1960年代という時代の世相について説明していくために、少し間接的な手法を用いる。1960年安保と1970年安保という境の時期にあったこの時代、世相全体が政治的状況を反映したものとなり、簡単にまとめることは不可能である。そこで、大人が児童に「与える」ものであった読み物の内容の変遷を簡単に追うことで、この時期の価値観の変遷について考察していきたい。十五年戦争敗戦後からの代表的な児童図書の内容を辿ってみよう。
 当時の社会の空気をまとめるために。

 日本の敗戦が1945年。
 その後、1950年代の終わりまでに、子どもの為の読み物として発表された作品をいくつか挙げていく。
 ただ、その前提として「子ども向けの読み物」というのが、そもそもどのような背景を負っていたのかについても触れないとならない。
 明治維新以降、子どものための読み物というのは、そもそも大人が教育の為に「与える」ものであるという側面を持っていた。だから、敗戦によって価値観が一変したとき、児童図書自体の在り方が問い直されることとなる。皇国臣民教育という束縛を逃れたのである。
 青少年の健全な育成の為の教育的図書ではない、子どもの目の高さから周囲の世界を見つめていくことが、児童図書の中で試行錯誤されたのである。そうして、「ノンちゃん雲に乗る」(石井桃子)等の作品が出版されていく。

 こうした時期に描かれた作品の一作に、「ビルマの竪琴」(竹山道雄、1947)がある。戦中、ビルマへ赴いた日本軍の一部隊を描いた作品である。音楽好きな水島という兵士のおかげで、敵との交戦が避けられたエピソードなどが、美談として描かれる。物語の最後、水島は戦地に打ち棄てられた日本兵の遺骨を弔うために、現地人の僧侶に姿を変えて、帰国を諦める。発表当時、美しい物語として高い評価を得たらしい。実際に僕が小学生の頃の学習雑誌にも、そのダイジェストが感動的な物語として掲載されたりしていた。
 ただし、リアル・タイムで満洲からの、苛酷な引き揚げ体験を持つ子どもの読書感想文には、日本人の遺骨ばかりを大切にする主人公の心情を偽善とする指摘もあったそうである。
 この映画は、市川昆監督によって、二度映画化されている。どちらの映画も、最後はこんなセリフによって締めくくられる。
「隊長は(現地に残った)水島のことを、家族にどのように伝えるつもりであろうか?」原作の抱える脆い側面を批判的に捉えた視点とも言える。この主人公は、自分の行為に酔っているいやらしい人間という側面も持っている。

 「二十四の瞳」(壺井栄、1952) 瀬戸内海のある小さな小島(壺井の別の作品には小豆島を舞台にしたものもあるが、この作品は地名を明記していない)で、「おなご先生」と十二人の生徒たちの戦前から戦後にかけての交流を描いた作品。同じ教室にいる子どもの貧富の差、戦争の影によって歪められていく人の心のようす、といった現在にも通じる問題が活写されていく。また、職業を持った女性が、二十代後半になると「ぽんこつ」と呼ばれていた社会背景など、改めて読み返し、考察したい部分も多数存在する。(男性でもまた、ある程度の年令に至っている教師は、独特の描かれ方をしている。)
 1954年に木下恵介監督によって映画化され、名画とされている。しかし、木下映画は、実はとんでもない駄作である。同じ木下恵介監督の「楢山節考」を併せて見ると、木下恵介監督というのは小説の読解力のない方だとしか思えない。「二十四の瞳」の原作のラスト近くで、老いた(まだ二十代後半)女性教師に裕福な家の娘であったかつての教え子が、若い頃に先生が通勤に使っていたような自転車をプレゼントすると口にする描写がある。このとき、主人公の「おなご先生」は、物資不足の時代に自転車など不正な方法でしか手に入れられないことを察して、そうした申し出を断るシーンがある。しかし、この凡庸な監督は、教え子が昔の担任の先生に贈り物をすることを美談として、改変しているのである。感動ポルノにも近い醜悪な感性である。

 この時代、当然ではあるが、さまざまなタイプの児童図書が書かれている。が、基本的には戦争中の(物語が子どもを戦争へと駆り立てたという)反省を踏まえ、新しい健全な社会を築くためにはどうしたら良いか、理想的な家庭や生き方とはどのようなものかといった内容を描いているものが多い。しかし、1960年の日米安保条約の成立前後から、児童図書の世界は大きな変貌を迎える。
 辛い状況にあったとしても、保護された子どもたちを描いた児童向けの作品世界を一変させたのが、「児童文学」という呼称を嫌い、「児童読み物」という言い方にこだわった一人の作家である。

 「赤毛のポチ」、「とべたら本こ」、「サムライの子」(山中恒、1960)。
 立て続けに発刊されたこの3作はどれも、当時の社会で、不当に無いものとされていた人々を扱った力作である。
 「赤毛のポチ」は、確か白血病の少女や知的障害のある少年といった登場人物の関係を、一匹の犬がつないでいくという、一見感動的な物語であったのだけれど、後書きにこんなことが書かれている。
 物語のモデルになった犬は、父親の股引の裏地にするために、殺されて皮を剥がれたと。
 当時の小学生は(僕もそうだったが)、トラウマなどという言葉は知らなかったし、ショックを受けたからといって騒ぎはしなかった。
 作者が一冊の本を「物語」で終わらせず、読みたくないと思わせる事実を添えることの意味を、必死に受け止めようとした。この後書きによって、もっと恵まれた環境に生きている自分は、結局現実に存在している、社会からいないことにされている人々の話を、所詮は他人事として読んでいることを突きつけられた。
 「とべたら本こ」という本は、僕が最初に読んだ山中作品であった。働き者の職人であった父親が競馬で大穴を当ててしまってから、全く働かなくなる。いや、家族が賭け事をやらない僕は、この本を読むまで大穴という言葉の意味を知らなかった。この物語、学校の先生が介入することによって主人公の少年の置かれた苦境が最悪のものになるという話から始まる。
 僕がそれまでに読んでいた子ども向けの本では、学校の先生というのは理想的な存在で、素晴らしい指導を行うデウス・エクス・マキナであった。教師が登場することで問題が解決する話ばかりで、僕は内心そんなのは嘘だと思っていた。
 教師とか名乗る連中の正義感は、子どもを追いつめ、事態を悪化させるばかりであると思っていた僕は、この作品に感銘を受けた。
 大体僕は、国語のテストの「主人公の気持ちを次から選びなさい」といった選択肢というのは、先生とやらが喜びそうな、いかにも偽善に満ちたわざとらしいものを選べば〇が付くと思っていたような小学生だった。良い成績というのは、教師というバカに媚を売って取るものだと思っていた。(だからこそ、それを屈辱と感じていた。) そういう子だったから、この本を読んだときの衝撃は大きかった。
 「教師というのは、最低のゲス野郎だ」という僕の理解を、明確に描いている人が、しかも学校の所有する本を書いている。これは、僕にとっては、救いの一つであった。
 この話は、1970年代になってからNHKでドラマ化される。十年余りの間に、かつての問題作が、一般的な子ども向け番組として放映可能なものとなっていたのである。このとき、主題歌を歌ったのが金延幸子氏。
 軽く略歴を書いておけば、日本のインディーズのはしりであるURC(アングラ・レコード・クラブ)から、一枚のソロ・アルバムの他に、数曲の音源、また愚というグループの一員としても何曲かを発表された方である。その後、アメリカの音楽評論家のポール・ウィリアムズ(映画「ファントム・オブ・パラダイス」に登場した同姓同名の歌手がいるが、別人)と結婚した。夫のポールが嫉妬深かったため音楽活動を停止したが、ポールの友人のSF作家フィリップ・K・ディック(映画「ブレードランナー」等の原作者)は金延氏歌うことを強く勧める。最終的には金延氏は、ポールとの離婚後に音楽活動に復帰した。
 「サムライの子」。小樽の街を舞台に、サムライと呼ばれる廃品回収の人々と、ノブシと呼ばれる物乞いの人々の反目を、子どもの目を通して描いた生活。僕は未見だけれど、デビュー当時の漫画家のつのだじろう氏が、とても力を込めてコミカライズしているそうである。初期のつのだ氏は、後に代表作として扱われる心霊漫画とは異なり、生活漫画とでも呼ぶべき作品を多く発表している。同業のちばてつや氏の作中に描かれた女性看護師像が、医療現場での実態と異なる(つのだ氏の妻は看護師だったそうである)ことに怒り、ちば氏の部屋を訪れ、懇々と説教をしたというエピソードもある。
 また、若杉文夫監督により映画化された日活での作品に、「サムライの子」もある。こちらは脚本を今村昌平氏が手がけている。原作との最も大きな違いは、原作図書に登場する主人公の父親がある程度理想的な大人像で描かれているのに対して、映画では必ずしもそうした姿には描かれていないことである。

 戦争への反省から出発し、理想的な(民主的な)社会の模索や、戦争への反省を描いてきた児童図書は、1960年代の初めから、よりリアルに現実の社会を描き始める。それが1960年台という時代であった。その中には、'60年安保条約の成立までの間に、「逆コース」と呼ばれた戦前の価値観の復活を厭う意識を多くの人が抱きながら、結局は安保条約が成立してしまった(日本が、また戦争を出来る国になってしまった)ということへの、強い苛立ちがあった。

 1960年台というのは、「これ以上、日本を反動化させたくない」という意識が吹き荒れながら、力づくでその風を押しとどめようとする国家ぐるみの暴力行使の時代であった。
 人の意思は、踏みつけられれば踏みつけられるほど、強い反発を抱くようになる。1960年代の後半、学生運動は激化し、多くの大学が学究の場としての存在意義を失っていく。そこまでの意識の断絶が生み出された背景には、為政者の側の闇雲な弾圧行為があった。当時から「暴力学徒」といった、辱めの為の言葉は用いられたが、先に拳を振り上げたのは、保守体制を強引に確立しようとする与党サイドであった。
 そうした中で、それまでに顧みられることの無かった社会問題も耳目を集めるようになっていった。その代表的なものが、公害問題であろう。かつては、公害の被害者を顧みることが、「国益に反する行為」と弾劾された時代もあったのである。しかし、一方で目先のことしか見ていない政策によって追いやられた社会活動家達は、テロへと走っていくことも選ぶようになる。

 1970年代の初めに山中恒氏が発表した作品に、「天文子守唄」がある。
 応仁の乱の頃の京都、ある貴族の屋敷に、悪名高い鬼童丸という盗賊の一党が押し入る。そこで一人の女性使用人を、ふとしたきっかけから切り殺す鬼童丸。しこたま宝を集め、党を解散して郷里に帰ろうとする彼は、しかし執拗で残虐な報復を一人の少年から受け始める。
 ここには、厳しい現実を見据えた上で描かれる調和や友愛といったファンタジーは後退する。「とべたら本こ」に描かれたような、社会制度から排除された子どもを放浪させるようなユーモアもない。ましてや、理想的保護者の像も存在しない。凄惨な暴力描写が延々と描かれる。僕の妻は、僕の子どもの頃の愛読書という話を聞いて、嬉しそうに読み始めた。しかし、最後まで読み通すことができなかった。「これ、本当に子ども向けの本なの?」 怖ろしそうにページを閉じ、二度と開こうとしなかった。
 1970年台というのは、そんなふうな時代であった。倫理観の崩壊した教師達による、地獄図絵のような学校生活を、悪意あるギャグ漫画として描いた永井豪氏の「ハレンチ学園」。戦中に人肉食を経験した人が多々あることを踏まえた上で描かれたジョージ秋山氏の「アシュラ」。連載途中で読んでいれば、救済や希望の光など一筋も見えない作品群が、子どもたちの前にも呈示されていた。

 この時期に、保守・反動に関わりなく、特定の政治信条に強く染まっていない人々にとって、最も共感できる気持ちを歌っていたのは、新谷のり子氏という歌手ではないだろうか。僕は、個人的にそう思っている。
 新谷の代表作「フランシーヌの場合は」は、ベトナム戦争に抗議し、アメリカ大使館の前で焼身自殺を遂げたフランス人の若い女性を描いている。感傷的と言えば、それまでかもしれない。しかし、戦場の事実が今よりも遥かに露わに報道された時代、目を背けたくなるような苛酷さを前に、闘争ではなく自己犠牲によって平和を訴える姿勢を描いたことが、多くの人々に受け入れられた。
 新谷にはほかに、「戦争は終わったけれど」という歌もある。こちらは1970年代に入ってからの歌である。「フランシーヌの場合は」ほど大きく話題になった訳ではない。
 ベトナム戦争からアメリカが撤退した1973年に発表されている。(実際の戦争終結は、1975年。) この歌を、静かで、また真摯に受け入れた方は多かったのではなかろうか? 漫画家大友克洋氏の初期作品には、この歌詞が全行引用されている短編がある。

 1960年代前後を含む、十数年の時期。日本は政治的な闘争の中にあり、その中で弾圧によりねじくれていったさまざまな活動。それでも、個々人の素朴な気持ちの中で、論争などはしたくないけれど、平和は祈念したいという思いを受けとめてくれる、そんな歌が生まれ、人々の心を惹きつけた。
2024年 7月 4日





奥主榮