「フォークやロックについて僕が知っているいくつかのこと(5)」奥主榮

2024年09月06日

2 1960年代という時代(2)

 1960年代という時代について、全回とは異なるアプローチで触れてみよう。首都圏を中心とした景観の変化と、地域社会の崩壊という側面から、僕が目にしてきたものを描いていく。

 実は、この時代について政治的な視点から語ることは、とても難しいのである。政治的な視点からは、大きな転換期であり、きちんと理解された方が良い価値観のシフト交代が行われた時期でもあったのだ。
 加藤泰監督の映画作品に「真田風雲録」という一作がある。僕は若い頃(1980年代)、池袋の文芸坐地下でこの映画を見た。(元々は、昭和の前半にサンカ小説で知られた作家三角寛氏が始めた映画館人生坐がその母体となっている。今の、ビルの一スペースにある映画館という形態になる以前は、文芸坐は独立した映画館であった。地上では洋画、地下では邦画が上映されていた。ほかに、ル・ピリエという小さなステージや、映画関係の書籍を販売する専門書店があったことも併記しておく。) この映画館の地下で、「加藤泰監督特集」が組まれたときに見たのが「真田風雲録」であった。僕は、何かの作品に触れるとき、なるべく前知識を持たないようにしている。なので、素直に好い映画だと思った。
 天下が徳川方によって支配されていく中で、抵抗を続けている豊臣方の家臣である真田と、その十勇士。決定的な戦闘を避けようとする豊臣サイドの家臣たちによって牽制される、主人公たちの真田十勇士。また、それぞれが抱える、内面的な苦しみ。印象的な作品であった。また、元々は舞台上映を前提としたミュージカルとして描かれた作品であり、「ウェストサイド物語」のパロディを含めた、軽快な描写は心地よかった。
 後になってから、この作品の背景には1960年代安保闘争の折に、日和見主義的な発想からの指示を出した政治家たちへの揶揄が込められたものだと知った。けれども、そうした時代背景について、どれだけ記述しようと、実感のない空疎な「政治的言語を使った発言ごっこ」になってしまうだけである。
 歴史は、間接的な形であろうと、自分の実感から語りたいと、そう僕は思っている。(この戯曲を執筆された福田善之氏は、後に手塚治虫氏率いる虫プロダクションのテレビ番組「バンパイヤ」の前半や、同じ虫プロダクションの山本暎一監督によるアニメラマ「哀しみのベラドンナ」にも関わっていく。いずれも、優れた作品である。特に後者は、フランスの歴史家ジュール・ミシュレの「魔女」を元に、「魔女とは自意識に目覚めた女性の先駆者であった」という発想で撮られた、非常に先駆的な作品であった。イラストレーターとして知られた、深井国氏の描いたキャラクターも、非常に秀逸なものであった。) ああ。また、話が逸れてしまった。
 政治的な観念に囚われて、1960年代という時代の背景に深入りしていくのは、ここでは止めておこう。
 極めて主観的な、私的な1960年代に関する記述を続けていく。

 僕は1959年に、東京都の中野区の北の外れである鷺宮という街で生まれている。(僕の生まれ育った場所は、今では、鷺宮という住居表示からは変わっている。) 物心つく前のかすかな記憶でしかないのだけれど、近所を流れる川沿いには水田が広がっていた。
 この川は、妙正寺川といった。やはり鷺宮に住んでいた作家の壺井栄のエッセイには、その川原でよもぎを摘んだ記憶とともに、牧歌的な場所が護岸工事をされていく様子が描かれている。
 この、水田の記憶は明確に残っているものではない。僕がかろうじて覚えているのは、クレーンが川の流れを掘り下げていた様子である。また、家の周囲に茂みや雑木林がある夢を見て、「そういえばここには根の露出した木が生えていた」という記憶を頼りに目を覚ました後で歩いていくと、そこには真新しい住宅が建っていたりした。田園風景が広がっていた場所には、公営住宅が立ち並んでいった。

 この時期の東宝のコメディ映画(題名失念)に、新しくできた団地の住人と、近所の薬屋の店主との交流を描いたものがある。団地が出来て住民が増えると、周囲の個人営業の商店も潤うと、無邪気に信じられた時代であった。また、新しく雑居型の「フードセンター」があちこちに作られていった。(成瀬巳喜男監督の映画「乱れる」に描かれているように、雑貨屋や乾物屋にとって代わって、スーパーマーケットが増えていた時代でもあった。「フードセンター」は、個人経営の店舗が複数集まり、同じ敷地内で営業する形態であった。) こうした店舗の開業の際、チンドン屋(東西屋)が宣伝をし、面白がって子どもが後を付いていくというのが日常の風景であった。また、ヘリコプターから宣伝ビラを新しくできた街に撒いたりということも、法的に許されていた。
 新しく生まれてくるものが全て、明るい未来を保証しているように思われた時代でもあった。例えばこの時代に撮られた大島渚監督の「青春残酷物語」といった作品は、そうした背景を知らずには十分に理解することが出来ない作品なのである。(この映画の撮影の一部は、僕が生まれ育った鷺宮を流れる、妙正寺川近辺の団地などで行われている。作中で一瞬登場する、橋を渡る通勤ラッシュの群衆は、僕の通った中学校近くの当時の情景である。また、桑野みゆき氏演じる女性の家は、やはり妙正寺川沿いの家として設定されている。)
 しかし、そうしたポジティブな要素ばかりではなく、実際の社会生活の中ではネガティブな要素も生まれていく。筒井康隆氏の連作短編「心狸学 社怪学」の中には、新しくできた団地の住民が、昔からいる戸建ての住民を古くさい生活をしている貧乏人として蔑視するさまが描かれている。また、原武史氏の自伝的小説「滝山コミューン」では、新しくできた住宅街の中で無言で強いられていく「共通の価値観」による暴力が描かれる。羽仁進監督の映画「彼女と彼」では、安定した生活を送ることができるはずの団地での生活を送る既婚女性の心の中で、徐々に拡大していく不安が描かれる。

 高度成長期の価値観。自分を犠牲にしてでも、建設や未来に奉仕せよ。1964年の東京五輪のときには、昼夜を徹しての突貫工事が礼賛された。それは、公営住宅の建築計画においても同様であった。
 騒音をまき散らし、トラックが走り回り、地響きさえ日常のこと。そうした日々が明けてから出来た街の人々は、周囲の住民を蔑んだ。子どもだった僕の周囲でも、それは常態化していった。
 僕にとって、言葉というものは「周囲とのコミュニケーション」を媒介するものではなかった。むしろ、それを阻むものであった。団地の子どもたちは、「ここは俺たちの街だ」と、周囲の住人がそこに立ち入ることを拒んだ。真新しい児童公園が羨ましくて、誰もいないと思ったときにこっそり入って遊んでいたら、どこからともなく姿を現した連中に手ひどい仕打ちをうけた。余りの苦痛に泣きじゃくる姿さえ、笑いものにされた。こうしたときに、子どもというものがどれだけ残酷なことをするかは、実は多くの方々に共有された記憶だと思っている。多くは、加害者の側に立った心の傷として。
「ここは、僕らの親が金を出して作った公園なんだ。お前なんか、入っていい場所じゃない。」それが、新しい街に住む彼らが、先住者である子どもたちを排除する論理であった。
 ありがとうよ。糞野郎ども。おかげで僕は、未だにもっともらしい正論など疑ってかかる老人に育つことができた。そして、お前らが否定した僕の言葉。あの頃にどうしても伝えることができなかった「コトバ」で、僕は何かを成し遂げようとしている。所詮、負け犬の遠吠えかもしれないけれど。

 小学校唱歌の「春の小川」は、かつて渋谷を流れていたせせらぎを描いたものだという。その歌のモデルではなかったけれど、リスペクトすべき詩人菊田一夫氏の詩集のタイトルにもなった「妙正寺川」という言葉は、僕にとって呪わしいものであった。新しい住民たちにとっては、汚いドブ川は単なる「川」に過ぎず、固有名詞である「妙正寺川」という単語は誰にも伝わらなかった。僕は、「まともな言葉も喋れない、おかしな奴として周囲から扱われた。」
 言葉によるコミュニケーションではなく、周囲の社会との隔絶。それは、今も僕の大きなテーマだ。

 当時の皇太子(現在の上皇)が、ひばりが丘の団地で撮られた写真が、この時代の新しい住居形態を象徴していると思う。(さすがは、日本国の象徴となられたお方である。) ちなみに、公営住宅以外に多く作られた、企業の宿舎の多くが今はリノベーションの対象として、洒落たスペースに変貌している。そのはしりは、関東大震災の後に建設された同潤会アパート群の、老朽化を理由にした解体直前の再利用であろうか。

 さて、僕を取り巻く景観は田園風景から住宅街へと変貌していった。そんな状態になれた頃に、僕は中学に進学する。1971年のことである。

 その頃から、僕は音楽を聴き始めた。サイモンとガーファンクルの動画を、NHKで視聴したのがきっかけである。衝撃を受けた。余りにも微妙で、言語化することが出来ない内容を、ポピュラーソングとして歌っている。いろいろな音楽を聴きたいと、あちこちに「レコードを貸して」と頼みまくり、出会ったのはジョン・レノンの「ジョンの魂」であった。このアルバムは、僕にとって特別なものであった。

ある意味では、僕は「ラブ&ピース」のジョンなんて糞喰らえ、とそう思っている。このアルバムのジョンは、本当に凄まじい。
 僕の拙い日本語訳で伝わるのであろうか。
 二篇、拙訳を添えておく。




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隔離(「ISOLATION」by John Lennon)



みんながみんな、自分のせいだと
言いつのってくる
こんなにも怖がっていることが
みえないのだろうか

孤立することが怖い
誰もが帰ることのできる家を
そうでなければ
隔離されてしまう

ただの男の子と女の子が
このとりとめのない世界を
変えようとするけれど
隔離されていく

世界はせこい仲間意識に満たされ
みんなで貶めあって行く
隔離し合っている

分かってくれるなんて思っていない
こんなにひどい仕打ちを受けたあとに
といって 君が悪いわけではない
君はありふれた人間で
おかしくなった歯車の一つなんだ

僕らは何もかも怖い
太陽だって怖いんだ
もう、隔離されてしまった

太陽は消えることがないだろう
でも世界はそれほど長くはないだろう
もうここから、出られない 

2020年 11月 6日 訳・奥主榮



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ビンボー人の成り上がり
(「A Working Class Hero」by John Lennon)



生まれたばかりのときに
ダメなヤツと言いはられ
考える間も与えられず
イタみが余りにも大きいので
何も感じなくなっていく
ビンボー人の成り上がり
なれるもんならなってみろ

家ではいたぶりまくり
学校ではキョーイクだとよ
リコウな子は憎まれ
かといってバカだと相手にされず
どうにもしょうがない中で
もう決まりごとなんて ウソだとわかる
ビンボー人の成り上がり
なれるもんならなってみろ

成人とやらになるまで
いたぶりまくり ダメな人間に育て上げ
そうしてからお前は「一人前だ」と言い始める
そのときには、ボロボロ 残るのは涙だけ
ビンボー人の成り上がり
なれるもんならなってみろ

神様、性欲、テレビ番組に漬けられ
自分じゃ おリコーと思ったまんま
平等で自由とカン違いして
あんたは自分が思うとおりの
どうにもならない最低のクズさ
ビンボー人の成り上がり
なれるもんならなってみろ

上の階には余裕があると
あいつらは言い続ける
でも そのために習わされるのは
笑いながらコロすこと
そうすれば 丘の上のヤツらみたいになれるさ
ビンボー人の成り上がり
なれるもんならなってみろ

もし成り上がりたいなら
僕のマネをしてみろよ
もし成り上がりたいなら
僕のマネをしてみろよ

2020年 11月 7日 訳・奥主榮



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 僕は、こういうことを言っても良いのだということに、救われた。当時、イギリスのBBC放送で、ジョン・レノンの歌が「気ちがいじみている(当時の表現)」で放送禁止になったという噂も耳にした。そのときに、僕は決めた。僕は生涯をかけて、「排除される側」の人間でいようと。

 大学に入ってから、いろいろな映画を見始めた。そうした中に、「ヒポクラテスたち」という作品があった。僕と同じような、学生運動からは少し遅れた世代の気持ちを描いていた。正義を前提とした運動には加われず、ある意味では中途半端なままの人生を生きている主人公。僕は、とても共感が出来、ラストに衝撃を受けた。僕の世代にとっては、いろいろな気持ちを喚起させられる映画であった。社会的な問題に興味を持ちながら、何か特定の「党派」に属してしまうことで自分を失いたくない世代。
 主演は、古尾谷雅人氏。この俳優の自死の後になって、僕は彼の初主演作、「女教師」と出会う。もう、僕は三十代の後半であったろうか。監督は、田中登氏。後期の日活ロマンポルノを代表する存在であり、「女教師」は田中監督の代表的な作品ではないが、非常に優れた作品である。ここで、古尾谷氏は、学校の女性音楽教師に性加害を行う金持ちのドラ息子を演じる。しかし、その犯罪は、周囲の大人たちがドラ息子の親(地元の権力者)に対して忖度を行うことによって隠蔽される。さらに、被害者であるはずの女性教師は二次被害によってさらに傷つけられる。1977年の時点で、セカンド・レイプを描いていたことに対しては、注目すべきである。そうした中で、主人公は苦悩し、最後には隠蔽に加担した担任教師を惨殺する。殺伐とした展開に思えながら、僕は子どもの頃にこの映画を見たかったと切実に感じた。欺瞞に満ちた周囲に、最後には牙を剥く主人公に共感できたのである。でも、リアルタイムではけして見ることはできなかったであろう。この映画は、当時18歳未満観賞禁止の指定を受けていた。

 どれだけ残酷なことを突きつけて来ようと、厭な現実をきちんと見せてくれる表現者は信じられる。そんなことを感じた。ちなみに、「女教師」の中では、フォークシンガー泉谷しげる氏の「春夏秋冬」が、とても印象的に使われている。この歌は、一般的な流行歌ともなったのだけれど、この映画の中でどのように使われたかは、記憶されて好いことだと思っている

 田中登監督の映画には、「人妻集団暴行致死事件」という傑作もある。この映画は、地域社会の都市化によって小さなコミュニティが失われて、行き場を失っていく若者たちが描かれている。この二作は、どちらも1970年代の埼玉の街を舞台にしている。東京都内では1960年代に起こった、共同体的な社会の崩壊と新興住宅や新しい価値観の侵入といった問題が、十年後には郊外の新しい住宅地として開発されていった埼玉で、細やかな部分では形を変えて進行していった。
 効率化、都市化といった欺瞞に満ちた言葉で肯定される「発展」やら「開発」やら。薄っぺらなものの裏に潜む陥穽を、世間からは目を外されるような「ポルノ」というマイナーと受け止められる表現手段の中で描いた先駆者がおられた。彼らに対する敬意を、僕はけして失いたくない。

 そして、1960年代という時代は、政治的な意味合いにおいてだけ何かが変質していった時代ではなく、人々が生きていく生活習慣や、その周囲の景観。そういったものが根こそぎ、変えられていった時代であるということを改めて述べておく。
 そうした時代背景に目を向けない限り、政治的な立場からこの時代を語る「特権階級」の威圧から、今の時代を生きている僕らは、けして解放されることがない。
二〇二四年 七月 一二日





奥主榮