「フォークやロックについて僕が知っているいくつかのこと(6)」奥主榮

2024年09月14日

   3 とりあえず、URCというレコード会社について語ろうか(1)

 連載の最初にも書いたように、僕は日本のフォークやロックについて、それほど詳しい訳ではない。誤った認識も多々あると思う。そうして場合、誤謬を指摘し、厳しくても指摘していただければ、とても嬉しく思う。

 日本のフォーク・ソング受容に関して、重要な役割りをになった組織に、URCレコードがある。もともとは、会員制のアングラ・レコード・クラブ(Underground Record Club)という組織として生まれたらしい。大手のレコード会社からは自主規制の対象となり、発売できない音源を、それを必要とする人々の手に渡るようにという趣旨で作られた会社であるらしい。
 多くの問題を抱えていたが、後には日本のインディーズ・レーベルの先駆け的な存在として再評価される。ただ、レコードの製作・販売を行うレコード会社という側面と、作家たちの作品を録音する音盤製作会社という二つの側面があったという記述も目にしたことがある。実際、URCから出ていたレコードの中で、岡林信康氏、五つの赤い風船などの作品は、日本ビクターからもレコード化されている。(ほかにも、そうしたダブル・スタンダード的な基準から複数のレコード会社からアルバムの出た方がおられた。) 後に忌野清志郎氏がタイマーズという匿名バンドを結成した際の音源に関して起こった現象と、とても似ている。タイマーズの演奏の中から、無難なものが大きなレコード会社から出されて、問題になりそうなものはインディーズ・レーベルから出された。
 話をURCに戻す。日本ビクターを初めとする会社からのアルバムでは排除されるような楽曲の販売を、URCが請け負うという側面もあったのである。
 そして、会員制の自主制作レコード会社から、独立した(販売経路は弱い)レコード会社へと転身した後、無名時代の自分たちの、かつての音源を、URCから商品として販売されることを避けた方々もおられたようだ。

 このURCからのLPレコードの作り方で、初期の頃には、一枚のLPアルバムのA面とB面を別のアーティストが担当することもあった。(レコードの時代には、盤面を一度裏返しさないと、全体を聴くことができなかった。一見不便なようでありながら、ザ・ビートルズなどは早い段階に発表された「リボルバー」や「ラバーソウル」等のアルバムからA面とB面の曲調を変えるなどの試みをしていた。そうした試みが結集するのが、当時全体で一貫したテーマを持ったLPとして扱われる「サージェント・ペッパーズ・ロンリー・ハーツ・バンド」であった。このアルバムは、当時最初から最後までの構成を精緻に考え抜いた「パーフェクト・アルバム」として絶賛された。流行歌手となることを期待された方の曲が、何曲か集まる。そうした歌を集めて、LPという形で、「ヒット曲集」がまとめられる。それが、ロング・プレイ、すなわちLPレコードというものであった。ただ、流行歌を沢山集めているから「お得」みたいな時代に、ザ・ビートルズは徐々にいろいろな試みをし始める。そうした試行錯誤が焦点を合わせたのが、「サージェント・ペッパーズ」なのである。)
 トータル・アルバムを達成する以前のザ・ビートルズには、レコードのA面とB面には、「それぞれ異なったことを試みる」という意気込みがあった。しかし、そうした表現活動に対する評価は、余りにも多様であった。レコード会社のアルバム作りの観点さえ定点を持たなかった。複数のアーティストが、一枚のレコードの片面ずつを担当するというのは、ある意味ではやっつけ仕事のようなものでもあった。そんな中で、高田渡氏と五つの赤い風船が、同じLPレコードの片面ずつに、自作曲を収めるという変則的なアルバムが出された。それぞれのアーティストが、「気に入らない面は紙やすりで削りましょう」とかやり合ったという一幕もあった。
 五つの赤い風船は、後に関西フォークと呼称される流れの中の、求心力の一つであった。「反戦」ということを声高に叫ぶのではなく、むしろ戦争の渦中におかれた個人の小さな悩みなどを謳い上げるフォーク・グループであった。僕が彼らの代表作だと思っている作品の一つに、「血まみれの鳩」がある。
 「血まみれの小さな鳩が/私の窓辺に 私にこう聞くんだ/この世界の空に私の休める所はないのでしょうか/どこの空を飛んでもどこの国へ行っても/傷ついたあの叫ぶ声が/私の心をイヤしてくれない//血まみれの小さな鳩が/私の窓辺で日の暮れに死んだ/彼が飛んだお空に平和を見ることもなく/長い旅を続けた/平和を見つけた時も いつわりの平和を見て/雲に隠れて泣いたろう/それでも翼を広げて飛んだのだ//血まみれの小さな鳩が/私の窓辺で死んでしまった今/彼をほうむることより/今のぼくらの世界をみつめることの方が/いつわりの平和の中で あきらめ暮らすよりも/まことの平和をつくろう/それがあの小さな鳩のためにも/それがあの小さな鳩のためにも」(西岡たかし「血まみれの鳩」を全行引用)
 直截に拳を振り上げるような反戦ではなく、戦争という現実に対して当事者でない人間が、「当事者でもないくせに」といういわれのない排除を受けながら、戦争が続いていることに対する心の痛みを描き切っている。声高な主張よりも、受け手の心を遥かに強く動かす力がある。
 それは、例えば当時としては「現実逃避だ」という批判も受けかねない、「おとぎばなしを聞きたいの」にも共通している。「遠い海の向うまで/つらい事は忘れさせてよ/おとぎ話を聞きたいの」という歌いだしから始まる歌は、やがて次のような一連に至る。「君の心に突き刺さる刃物は/悲しい戦争の炎/夢を今までこわされたボク達/おとぎ話を聞きたいの」(西岡たかし「おとぎ話を聞きたいの」より、一部引用)
 こうした表現を、感傷的とそしることは簡単であった。しかし、戦争を高らかな(そして硬直して一方的な国家主義と類似した)反戦イデオロギーで語るのではなく、混乱する時代の中で改めて「戦争が一人ひとりを傷つけていることを改めて見つめ直そう」と訴えかける力を持っていた。

 同じレコードの別の面を歌った高田渡氏が、「(レコードの)片面を削って」云々というMCをしていた件に関しては、けして対立ではなかったと、僕は思っている。表現手段の差異を受け入れた上で、ある意味ではファン層が異なるということを前提にして、面白おかしく話していたのではないかと思う。(高田氏の死後に、なぎらけんいち氏によって書かれた著作の中には、高田氏の訃報に触れた、五つの赤い風船のリーダーであった西岡たかし氏の描写から始まるものがある。)

 会員制だった時代のURCからは、ほかにもコンビネーション・アルバムが出ている。小室等氏の率いる六文銭と、中川五郎氏による一枚である。ただし、六文銭はレコード会社になったURCからはアルバムをだしていない。後年、URCからの発掘音源が復刻されるようになったときにも、僕の知る限り、六文銭の楽曲は再販されていない。

 中川五郎氏について、僕の知っている限りのことを。
 和製フォークの黎明期に、さまざまなアマチュアの方々が、よりルーツに近いフォークをと模索した。そうした中で、後に早川のポケット・ミステリでの翻訳などを手がける真崎義人氏という方がおられた。ボブ・ディランの初期の作品、「炭鉱町ブルース」を日本語訳して歌った。英語のフォーク・ソングの、類型的な歌いだしである、「みんな集まってくれよ/そして耳を傾けてくれ」という歌詞を、「おいで皆さん/聞いてくれ」と訳した。秀逸な訳である。(こういう話については、日本の演歌の起源を思い出す。明治時代、人前で自分の意見をいう演説というスタイルが、どうしても自己主張を恥じる体質に合わないと事実から生まれたのが演歌であったという。俗謡を歌うことには抵抗がなかった人々に対して、歌で主張をするようになっていたのが、演説の対義語である演歌の起源であるというものである。演歌の始祖と言われる、添田唖然坊氏の著書などに詳述されている。)
 真崎氏の訳となる「炭鉱街ブルース」は、「僕の生まれは炭鉱街」と続き、鉱夫の生活がせつせつと語られていく。この時代、徐々に石炭の需要は少なくなり、日本でも炭鉱労働者は解雇されていった。(僕は未就学児童であった頃、上野駅から出入りする蒸気機関車を目にしている。また、僕の最後の職場であった八王子には、蒸気機関車の進行方向を変えるための施設の名残が残っている。)
 そんな「炭鉱街ブルース」を耳にして、当時まだ高校生であった中川五郎氏が聴き、「受験生ブルース」という替え歌を作る。
 高度成長期の、「競争原理、イケイケ」の時代の受験生を描いた替え歌である。多様な価値観など顧みられることもなく、競争原理絶対という社会風潮を背景にしている。このとき中川五郎氏の歌った替え歌は、本来の「ブルース」を尊重した、短調の歌であった。しかし、この歌を、最初は本格的なフォーク・ソングを歌おうとしていたとされる高石友也氏は換骨奪胎する。陽気なコミック・ソングに作り替えて、コミック・ソングとしてヒットさせる。
 さらに中川五郎氏の「主婦のブルース」も、「楽しい諷刺のコミック・ソング」としてパクる。いや、原著者名は明記していたと思うから「パクる」という言い方はふさわしくないかもしれない。しかし、こうした高石の態度は、初期にはコミック・バンド扱いされていた南高節氏(のちには、南こうせつ氏)とかぐや姫の在り方に影響を与えていないだろうか。面白おかしく、売れそうな歌を作りだしていく。「一人寝のかぐや姫」といった、思春期の少年の心をくすぐるような、少しエッチな歌を昼間のAM曲で流していた時代のかぐや姫も、僕は知っている。同じ時代、「フォークシンガー」というのは、規格外の非常識な言動をする方々として扱われていて、一般的な週刊誌記事などで、かぐや姫のメンバーと泉谷しげる氏の対談で「奥さんが妊娠中の性欲の発散の仕方」みたいなものが掲載されているのを読んだ記憶がある。

 フォーク・ソングが面白おかしいコミック・ソングとして認知されたきっかけは、フォーク・クルセイダーズあたりにきっかけがあるのかもしれない。「帰ってきたヨッパライ」という、自主制作版の一曲により、脚光を浴び、大きな影響を残していく。しかし、コミック・ソングによって不本意にもデビューしたという意味では、彼らはこれもまた不本意に悪しき足跡を残したのかもしれない。
 (フォーク・クルセイダーズに関しては、後に触れる予定である。)

 中川五郎氏の「受験生ブルース」も、「主婦のブルース」も、いわゆるフォーク・ソングのヒット曲として扱われる。さらに、「受験生ブルース」は「機動隊ブルース」という替え歌をも生み出していく。替え歌という表現による、価値観の転換。いや、そうした中で重ねられる「諷刺」という方法による主張そのものが、二元論的な価値観を生み出していく。中学時代の僕は、そんなことにある種の危険さ(脆弱さ)を嗅ぎ付けた。替え歌ではないが、そうしたことの危うさというものを、僕が強く感じた歌があった。
 反戦歌として歌われるようになった、「かっこよくはないけれど」という曲であった。この歌も、原曲はアメリカの曲である。いくつかのヴァージョンがあるが、その中の一つは中川五郎氏のアルバムに収録されている。デモや抗議活動がカッコ悪いと思われていた時代に、そうした示威活動を「かっこよくはないけれど」として、「平和のためならばかまわない」と礼賛する内容である。しかし、学生運動の高まりを子どもの頃に見ていた僕は、何か微妙な違和感をおぼえた。僕の世代にとっては、何か違和感をおぼえた。何だろう、既に「かっこよい」という認識があった活動を、「かっこよくはないけれど」と括り、声高らかに同意を求める姿勢に、気持ち悪さを感じたのである。
 「座り込みをするのや/デモをするのはかっこが悪い(中略)それはかっこが悪いよね/君は何度も言うけれど/平和のためならばかまわない」という歌詞は、容易に次のように言い換えることが可能である。「軍服を着るのや/行進するのはかっこが悪い(中略)それはかっこが悪いよと/君は何度も言うけれど/お国のためならばかまわない」と、単語を数か所入れ替えただけで、価値観を転換されてしまう。(確か原詩はマルビノ・レイノルズで、訳が誰であったかは覚えていない。)
 絶対的な価値観が信奉されていた時代の、仇花なのだろうか。反体制の歌を奏でる歌手のお得意の手段、替え歌とすることで対立する勢力への加担ともなり得る、こうした歌詞に十代の僕は、とても抵抗を覚えた。高らかに一方的な正義を謳いあげることへの疑義も感じた。
 当時、中川氏が発表した、とても勇ましい曲に、「うた」がある。これまた、うろ覚えの歌詞なのだけれど、「今はもう長すぎるコンチェルトなど/聞いているときではない」(作詞者は失念、多謝。)という歌いだしである。しかし、この曲は、1970年代に入ってから、小室等氏からかなり激しい批判を浴びる。小室氏はこんな内容の発言をしていた記憶がある。「どれだけ周囲の状況が逼迫していても、コンチェルトを聞きたい人はいる。それを否定することはできない。」半世紀前の記憶に頼った引用である。正確なものではない。ただ、要は、「ある主張による価値観ばかりが尊重されることも、また一つの全体主義である」という発想であった。
 まっとうな発想であると思う。ちなみに、1970年代の前半に小室等氏が自分が担当するラジオ番組で賛辞を送っていたのは、ジャックスの「空っぽの世界」であったり、友部正人氏の「一本道」であったりした。詩では、茨木のり子氏の「私が一番きれいだったとき」を、戦争を描いた優れた詩として紹介していた。
 先にも書いたように、会員制ではなく、後にレコード会社となったURCから、小室等氏と六文銭の中川氏のコンビネーション・アルバムが再度出されることはなかったと思う。最初のアルバムとは収録曲が大幅に異なる、中川五郎氏の単独のアルバムが、「終わり 始まる」が出されたのみである。しかし、特に「主婦のブルース」などで、類型的な笑いの対象としての女性を描いたことに対する批判を、中川氏は真摯に受け止めたのだと思う。中川氏の歌、年齢を重ねるにつれて、とても素晴らしく、聴き手の心へとダイレクトに訴えかける作品群へと変貌していく。
 現在、中川五郎氏が謳いあげる歌は、上っ面な諷刺などとは無関係な、真摯な問いかけに満ちている。「トーキング烏山神社の椎ノ木ブルース」は、関東大震災の折の、朝鮮人虐殺を描いた歌である。僕がこの歌を最初に聞いたのは、十年ほど前であったろうか。阿佐ヶ谷のYELLOW VISIONというライブハウスで、有馬敲氏の詩の朗読会が開かれた折である。有馬氏は、日本のフォークソングの形成期の動きにも関わられた詩人で、1970年代には京都のほんやら洞などで、片桐ユズル氏、秋山基夫氏らとともに、詩の朗読活動を行っていた。有馬氏の、阿佐ヶ谷での朗読会は超満員と言っても良い状態であった。結局、前座としての出演者の一人であった僕は、他の演者の出し物は会場の扉の外で聴いていた。ただし、扉越しでも、虐殺事件の加害者が釈放された記念植樹が、当時を知る人が亡くなっていくにつれてねじ曲げられて伝えられ、被害者を追悼して植えられたものとされていった経緯を具体的に語っていたことは覚えている。
 僕は、政治を感情的に語るのは非常に危険なことだと思っている。感情は、熱狂的な盲従や、無条件な他者の排除を生みだす。そうした感情を、一度退け、冷徹な目で自分を見つめ直さなければ、政治は語り得ないと思っている。政治は、事実と、論理によって語られなければ、と。そうした意味で、この歌で語られる訴えは、とても訴求力がある。
 また、同じ関東大震災を扱った中川氏の作品に、近年森達也監督によって映画化されヒットした福田村事件を扱った「1923年 福田村の虐殺」もあった。長い歌である。関東大震災のときに、四国からの行商人が、震災時に不穏な行為を行っていると思われ虐殺された事実を描いた曲である。先述した
 「トーキング烏山神社の椎ノ木ブルース」が、かなり怒りを露わにしているのに対して、こちらは事実を淡々と語っていく。

 中川氏の「福田村の虐殺」は、森監督の短いエッセイにインスパイアされたものであったらしい。詳細な背景を、リサーチした上で歌われている。それがフィードバックされて、映画の「福田村事件」が撮られたといった事情も、最近知った。
 様々な批判を受けることによって、批判以前よりも素晴らしい作品を産みだす作家もおられる。僕は、そんなふうに思っている。それは、作者が自作への批判を、自分を守る意識に走らず、真摯に受け止めた結果なのである。

 ちなみに、まだ若かった頃の中川氏が翻案した歌に、とてつもない傑作がある。これもまたアメリカのフォーク・ソングの訳である「腰まで泥まみれ」だ。元々はピート・シガーの曲であったろうか。アメリカで(多分徴兵によって)軍事演習に参加した一人の兵士が、訓練の最中に深い河を渡らされる。先頭に立つ隊長に、部下は進言する。「引き返しましょう」と。しかし、隊長は「前にも渡ったことがある」とそのまま進む。危険を感じた兵士たちは、途中で進むのを止める。隊長は一人で深みにはまりこみ、一人で死んでいく。歌の最後は、シニカルに終わる。隊長は、河の流れが深くなっていたことを知らなかったのだろう。
 今の時代の方が、この歌の怖さは強く感じられる。米兵は、自己判断の余地が許された。しかし、上意下達が美徳とされ、近年になって「忖度」という名称で「こびへつらう」ことが当然とされてきた日本国での方が、この歌の内在する恐怖は、より強く感じられるかもしれない。「僕らは 腰まで泥まみれ/だけど馬鹿は叫ぶ進め!」。と、そんな歌詞で歌は終わっていたと思う。
 そして、この歌はアメリカがベトナム戦争での加害者となり、戦争が泥沼化していった時代に、加害国家であるアメリカで歌われたのである。そうした歌が、今では日本でも切実な実感とともに受け止められる可能性がある。

 そんな時代に、僕は生きていると思っている。

二〇二四年 七月 一八日





奥主榮