「フォークやロックについて僕が知っているいくつかのこと(7)」奥主榮

2024年10月12日

   3 とりあえず、URCというレコード会社について語ろうか(2)

 註:今回の原稿の中に、先日訃報が伝えられた高石友也氏に対する批判的な部分があるが、原稿末の執筆日時にあるように、氏の生前に書かれたものである。死者に対して批判的言辞を費やすために書かれてはいない。僕の原稿の中には、多々多くの先達に対する批判的部分が含まれるが、一方的な賛辞ほど思考を停滞させるものはないと、僕は考えている。批判的な側面も含めて検証を行っていくことが大切だと思っている。
 付記:また、本稿執筆後に、文中に登場する詩人の渡辺武信氏も亡くなられた。

 前回の話題が、やや政治的な背景に寄り添いすぎてしまったことへの反省から、URCのレコード・ジャケットという、いわばビジュアルな面に関して、少し触れておこう。

 URCは、音源作成会社という側面もあったらしく、そこでの録音が日本ビクターや、キングレコードなどからも、同じアーティストのアルバムやシングル盤レコードが発売された。ただ、レコード倫理規定委員会への参加会社からは、問題になりそうな曲は発売されなかった。
 フォークソング初期に人気を得た、岡林信康氏や五つの赤い風船のレコードは、URCと日本ビクターの両方から販売されていた。その他の複数のレコード会社からレコードを出していたアーティストに関して、細かく検証していくと、余りにもマニアックになってしまうので、ここでは省略してく。ただ、岡林信康氏が「師匠」と仰いでいた高石友也氏(デビュー当時は尻石友也氏)は、(こう書くと上の世代からは叱られるのだけれど)僕の世代からは「金になるフォークにたかったボス」みたいな印象であった。ちなみに、高石友也氏は当時、日本ビクターからしかアルバムを残していない。僕は、かなり長い間、高石作品に関しては「聞かず嫌い」の時期があったのだけれど、日本ビクターからの3枚のこのアルバムは、けして悪いものではない。口当たりよく、耳にしやすい「フォーク」ではあった。けれど、中川五郎氏の「受験生ブルース」や「主婦のブルース」をコミック・ソングとして流行らせた辺りに、どうしても「商才に長けた人」という印象が僕にはあるのだ。この連載の最初の回で、ジャックスの「ロールオーバーゆらのすけ」について触れたが、その歌詞の中の「商売上手のインチキ野郎」(早川義夫)という言葉は、高石友也氏にこそ投げつけられるべきではなかったかという気もする。
 けれど、その一方でボブ・ディランの歴史的な「フリーホイーリン」(二枚目のLPであるが、このアルバムには、当時まだディランは若かったにも関わらず、後に彼の代表作とされていく曲が数多くが収録されている)の中の一曲「戦争の親玉」の日本語訳を歌ったり、あるいは後にRCサクセションによってコピーされる「明日なき世界」を日本語版として歌っていたり、真情を込めて先鋭的な表現をされた方であったという側面もあったと思う。

 個々のアーティストに対する僕の主観など、どうでも良いのである。ただ、メジャーの日本ビクターからレコードを出した高石友也氏は、とても大きな損をしたなという印象を、僕は受けている。

 URCと日本ビクターの双方からアルバムを出した、岡林氏や五つの赤い風船について書けば、レコード・ジャケットのセンスが、URCはけた違いに高かった。まず、URCのレコードについて、簡単にまとめておこう。
 そのためには、まずレコード・ジャケットというものについての説明が、今では必要かもしれない。レコード・ジャケットは、機能的な面だけをまとめれば、落下などによって破損しやすいレコード本体を保護するための包装であった。LPレコードのジャケットには、シングル・ジャケットとダブル・ジャケットという二つの形式があった。封筒のようにレコードを収納するだけで歌詞カードなどはジャケットの裏面に掲載するか、あるいは中に別紙で収めていたのがシングル・ジャケット。包装自体のサイズを二倍に広げて、店頭に並ぶときにはそれを二つ折りにした形にしたのがダブル・ジャケット。購買者が手に取るときのサイズは、どちらも同じものになる。ダブル・ジャケットの場合、表面と裏面に装丁がほどこされ、見開きの中ページにあたる部分には歌詞などが印字される場合が多かった。当然、ダブル・ジャケットの方が手間のかかる分、高級な印象を与える。やや話題が迂回したが、そうした説明を踏まえた上で、いろいろなアーティストについての具体例を述べていく。(ちなみに、URCのシングル・ジャケットのアルバムは1500円、ダブル・ジャケットによるアルバムは1700円という価格設定があり、後には200円値上げした。僕は実は、こうした一見どうでも良い情報を書き残しておきたいのである。)

 またしても余談になるが、レコードの時代には、ジャケットのデザインに変則的な装飾が施されることがあった。その代表檄なものに、アメリカのロック・バンド、サンタナの「ロータスの伝説」がある。横尾忠則氏が手がけたこのジャケットは、LPサイズの図版が複雑に織り込まれていて、22面ジャケットとして知られていた。全て広げると、曼荼羅のような世界が展開されるのである。

 さて、閑話休題。
 五つの赤い風船の最後のスタジオ録音である「NEW SKY」「FLIGHT」は、対となる二枚のアルバムを同じようなピンクの空に雲が描かれ、図柄は異なっているというスタイルだった。今だったら面白がられる可能性が高いが、当時は紛らわしいという理由で大手のレコード会社はけして採用しないデザインであった。とても洒落たセンスである。あるいは2枚組にすると高額になるという配慮だったのかもしれないが、2枚に収録された曲の印象は微妙にことなっている。
 レコードでのデビュー当時からカリスマ的な人気のあった岡林信康氏の最初のアルバム「私を断罪せよ」は、ダブル・ジャケットの作品である。それだけ高く評価されていたのであろう。このアルバムは、表側と裏側は対をなすイラストとなっている。牧師の子であり、部落解放運動に関わっていた岡林氏の姿を、キリストになぞらえた一対のイラストで表現している。三枚組のライブ・アルバム「狂い咲き」には、イラストレーターの黒田征太郎氏によりデザインされたポスターを引用している。(ジャケット・デザインも手がけていた記憶がある。)
 同じ五つの赤い風船や岡林信康氏の、日本ビクターからのアルバムは、基本的に歌っている人の写真を載せるという、昔ながらの手法を用いたものである。(シングルには例外もある。)

 1970年前後の世俗について語られるとき、当時売り上げが最も大きかった週刊漫画雑誌「少年マガジン」が横尾忠則氏に装丁を依頼した時期があり、ある号で横尾氏がデザインしたのは、モノクロ印刷の表紙であった。発行元である講談社の上層部は、カラー印刷の方が部数を伸ばせるという先入観の下に大反対をしたそうであるが、結果は過去にない最高の売り上げであった。
 思い切ったチャレンジをするもの、先入観による価値判断を取り払ったもの。そうした試みを、僕は子どもの頃に存分に浴びてきた。
 そして、先述の黒田征太郎氏以外にも、URCのレコード・ジャケットに関わり、かなり挑戦的な活動をされていたアーティストが多かった。

 少年マガジンが、「サキ短編集」という企画を、当時実現した。サキは、「最後の一葉」で知られる作家、Oヘンリーと並ぶアメリカの短編小説の名手である。人情噺風のOヘンリーに対して、サキの作風はシニカルであることで知られる。そうした内容が、1070年代初めという価値観の転換期に似合っていた。このとき原作小説の漫画化を担当したのは以下の作家。松本零士氏、真崎守氏、辰巳ヨシヒロ氏、上村一夫氏、川本コウ氏、いけうち誠一氏、石原はるひこ氏。今では余り話題とならない作家もいるかもしれない。
 うろ覚えの記憶なのだけれど、辰巳ヨシヒロ氏は「東京姥捨山考」、上村一夫氏は「完全なる答案用紙」という作品を同誌に発表していたと思う。いずれも、現在では少年誌には掲載不可な内容ではないかと思う。真崎守は、当時の「青春漫画」の描き手であった。青春漫画といっても、熱血的な内容ではない。屈折した十代の心情を描く作家であった。(「死春記」という題名の作品集もある。) URCから出された友部正人氏のファーストアルバムのカバーイラストは、真崎氏が手がけている。(真崎氏は、手塚治虫氏の虫プロダクションのスタッフでもあり、日本初の国産カラーテレビ漫画「ジャングル大帝」にも、平仮名表記で参加している。また、峠あかね氏という別名で、漫画評論という分野が存在しなかった時代の開拓者として活躍している。)
 真崎氏には漫画作品として、「キバの紋章」「ジロがゆく」などの代表作がある。斎藤次郎氏を原作とした「共犯幻想」は、1960年代後半の新宿西口フォークゲリラなどを描き込んだ作品で、映画監督岡本喜八氏の「にっぽん三銃士 おさらば東京編」とともに、当時の新宿のようすが描き込まれている。(連載の先のほうでも触れるが、このフォークゲリラ運動に対する批判もある。)

 やはり虫プロのスタッフであったアニメーターに、林静一氏がおられる。個人アニメの作家でもあった。後に、「源氏物語」というメジャーなアニメにも参加する。はっぴいえんどのファーストアルバム、いわゆる「ゆでめん」は、林氏の手がけたものである。
 同じはっぴいえんどのセカンドアルバム「風街ろまん」のジャケットは、宮谷一彦氏が手がけている。
 青林堂から発行された「ガロ」という雑誌に刺激され、手塚治虫氏は虫プロ商事(制作会社である虫プロダクションとは別組織)から、「COM」という雑誌を創刊し、そこにライフワークの「火の鳥」を連載する。一般的には「ガロ」に連載された白土三平氏の「カムイ伝」に対抗したものだと指摘されている。
 「COM」に投稿した漫画家の一人が宮谷氏であった。宮谷氏は、過剰な思いを自作のページにぶちまけ、作品を発表していった。晩年には、異常なまでの肉体至上主義を前面に押し出した作品を公けにしていく。また、その一作「人魚伝説」は、池田敏春監督によって映画化されている。そんな宮谷氏の仕事の中で、「風街ろまん」のジャケットはクールな仕事の一つである。
 よく知られている、メンバー四人の顔が並んだジャケットや、ダブルジャケットの内側に描き込まれた昔の東京の風景。ブロンズ社から出ていた松本隆氏(はっぴいえんどのドラム担当)の単行本の中で、この精緻な絵が絶賛されていた記憶がある。

 こうした、ビジュアルな表現について、URCは意識的な存在であった。

 URCの後から、やはりレコード倫理規定委員会に所属しないレーベルとして、ELECが現れた。(後に詳述。) しかし、ELECは卓抜したビジュアルには手が届かなかった。むしろ、メジャーのレコード会社であったキングレコードから子会社として独立したレーベルとなったキングベルウッドに、こうしたビジュアルな拘りは継承されている。
 キングベルウッドから出された、あがた森魚氏のメジャーの最初のアルバムのジャケットは、はっぴいえんどの「ゆでめん」と同じ林静一氏が手がけている。再販や、復刻版では簡略化されているが、このLPのジャケットは三面鏡のような体裁であり、歌詞カードは林氏の漫画「大道芸人」のダイジェストの引用が含められた小冊子となっている。
 あがた氏は、まだマルチメディアという言葉が影も形もなかった時代に、複数の表現手段を混合させた表現を試みていた。フォーク・ブームと呼ばれた時代が忘れ去られた時代に、レコードの販売といった面では不調となるが、出されるアルバムはどれも、境界線を越境した作品として完成している。その、初期の集大成が「永遠の遠国」であり、サブトータル的なアルバム「日本少年」(大正時代にこのタイトルの少年向けの雑誌が出されていたことを踏まえている)に参加した、まだ広く名は知られていなかった矢野顕子氏は、強い影響を受けて自作の最初のアルバムを「日本少女」にしようとした。(実際には、「ジャパニーズ・ガール」となった。)
 ちなみに、この「日本少年」のレコードジャケットを手がけたのが、1970年代に入ってからの雑誌「ガロ」で活躍した鈴木翁二氏である。様々な形で、その後の日本のけしてメジャーではない表現活動に影響を残していく鈴木氏ではあるが、個人的に僕は、北桃書房という出版社から出された漫画アンソロジー「夜行」というシリーズの一冊に収録された、「柿を掴む」という短編作品が好きである。たしか「ああ、また夕暮れに目を覚ましてしまった」という、世間の常識からは見放されるような生活をしている主人公のモノローグから始まる作品だった。
 世間並みの生活からはずれてしまった主人公が、日暮れた後の街を彷徨い歩くうちに、どこかの家の庭から道路に突きだした柿の枝を見つける。そこに実っている赤い実に向けて手を伸ばすために体を伸ばしたとき、生きていることの実感を失っていた自分の中に、それまでに感じたことのない緊張感をおぼえる。ただ、精一杯全身を伸ばすという行為の中で、張りつめた瞬間を経験する。
 内容としては、ただそれだけの作品なのだけれど、毎日の生活の中に無為な虚しさを感じて生きていた高校生の頃の僕には、とても衝撃的な作品であった。

 こんな思いを抱えて生きていることは、けして異端であることではないのだと、そんな思いを受けとめることができた。

 ちなみに、あがた氏は1960年代後半の、いわゆる「学生運動」が派閥間での争い、仲間内どうしの暴力の振るい合いで「内ゲバ」が横行していた時代を体験している。そうした中で、闘争の後遺症として障害を負った友人もおられたらしい。
 閉塞的な時代を背景として、当時は家という制度に背を向けるものと思われた同棲生活を描いていた、林静一氏の作品、「赤色エレジー」にインスパイアされた曲を歌ったことで、あがた氏はデビューしている。

 その歌によって誘導されたかのような「同棲ブーム」が起こり、漫画家の上村一夫氏は「同棲時代」を描く。映画化もされたこのヒット作品の原作は、しかし、かなり陰惨な結末を迎える。最終的には婚姻関係にない不安定な生活に女が心を蝕まれていく過程が描かれていく。同棲という生活形式が体制への犯行として礼賛された時代へのアンチテーゼのように。
 フォーク・ソングからアングラ色が薄れていく中でヒットした、かぐや姫の「神田川」のヒットを受けて作られた東宝映画に、同名の「神田川」という作品がある。この映画の中には、同棲している女性の子を、男性の兄が強制的に堕胎させるという、今の方々が観たら嫌悪感しかおぼえないようなシーンが登場する。(男性の一家は高学歴を誇っていて、「素性の知れない女」の子など、ゴミ扱いなのである。) こうした映画が当たり前のように公開されていたことに、当時の社会の差別的な「常識」の一端が窺える。ちなみに、この頃にはまだ企業の採用基準として出自が問題とされていた。差別を行い誰かの人権を踏みにじることまでもが、「許容」の範囲だったのである。

 林静一氏に比べ、上村氏ははるかに商業主義的な描き方に自分を合わせることが可能な作家であった。(ただし、晩年は描きたいものを手がけられないということに苦悩していたそうである。) 
 上村氏がもっとも描きたいものを好き勝手に描いていた時代の作品のいくつかは、現在では復刻不可能であると思う。僕にとっては、そうした現在となっては禁断の果実とも言える作品を貪ることも許されていた十代の頃であった。

 僕には、現代の「コンプライアンス」というものが、かつてのアメリカの「禁酒法」と似たようなものに感じられることがある。
 正当化された社会的な正義は、ときに本来保護されるべき対象の存在を無視して、空虚な観念を振りかざしているだけに、僕には思えるのである。

 音楽作品という聴覚的なものと、イラストなどの視覚的な表現との関わりについて書くつもりが、脱線してしまった。

 ビジュアルな表現や、後のマルチメディア的な手法を意識した作品について考えているうちに、人間の、五感の感覚を総動員して描かれたかのような歌詞を思い出した。
 はっぴいえんどのドラムを叩いていた松本隆氏の、「十二月の雨の日」という曲の歌詞である。
 「水の匂いが 眩しい通りに/雨に憑かれた 人が行き交う/雨上がりの街に 風が不意に起こる/流れる人波を 僕は見ていた//雨に病んだ 乾いた心と/凍てついた空を/街蔭が縁取る/雨上がりの街に 風が不意に起こる/流れる人波を 僕は見ていた」(松本隆氏「十二月の雨の日」、全行引用。)
 嗅覚である匂いを視覚である「眩しい」という表現に置き換え、雨に憑かれたという歌詞の中に、「雨に憑かれた(疲れた)」というダブルミーニングをさりげなく隠す。
 言葉だけで形成されながら、人間の持つ感覚器を総動員したマルチメディアとでも呼びたくなる作品である。
 当時、松本氏が憧れていた詩人の渡辺武信氏(往年の日活アクション映画に関する論者としても著名である)との対談も書籍(第一詩集「風のくわぁるてっと」)に残した作詞「家の面目躍如たるものがある。
 1970年代後半以降、歌謡曲の世界に進出し、多くのヒット作を手がける松本氏が、その最初期作品においてはむしろ実験的であり、挑戦的であったことの証左のような歌詞でもある。そしてまた、メジャーになった後の松本氏が土壌として自らの中に培っていたものの豊潤さを思わせる。(松本氏や、はっぴいえんどに関しては、後に細かい検証を行う。)
2024年 7月 23日






奥主榮