「フォークやロックについて僕が知っているいくつかのこと(8)」奥主榮
3 とりあえず、URCというレコード会社について語ろうか(3)
註:今回の原稿の中では、「ステューデンツ・ムーブメント」という語が用いられている。一般的には「学生運動」という単語が用いられることを十分に承知の上で、ラべリングという先入観によって是非を問われやすい語句から距離を置くために、余りなじみのない言い回しを選んだ。
なんだか、インディーズのはしりのような組織について語ろうとしたら、あれこれ長い話になってしまった。けれど、URCについては、話が多少脱線しても、多くを語りたいのでご容赦願いたい。
前々回、新宿駅西口フォーク・ゲリラについて少し触れた。
直接には、その現場に僕は世代差で触れていない。僕自身は小学生の頃であった。歩いたり自転車で行くことのできない新宿は、毎日の活動範囲の外であった。
1960年代の後半に、新宿駅地下の、西口近辺で反戦歌を歌う集会が開かれるようになったらしい。主導的な役割を果たしたのが、当時ベ平連と略称された、「ベトナムに平和を! 市民連合」という団体であったという話も読んだことがある。これらについて、詳述していくには、僕の知識は足りない。ある意味、とても混乱してしまうのである。
僕はこの時代の政治的な話題に深入りしたくないと思っている。というのは、今の二元論的な発想がはびこるネット社会を見るにつけ、実はそうした二元論化社会のご先祖様万歳とも言える「政治的な論理の展開」には寄り添いたくないからである。僕は、いわゆる全共闘世代の真剣な闘争を見てきたからこそ、その弊害は意識していたいし、あえて触れないことで批判したいことも、多々あるのである。
ちなみに、この反戦フォーク集会は、以下のようなくだらない理由で禁止された。新宿駅西口地下にあるのは、「広場」ではなく「通路」である。だから、そこで足を止める行為は道路交通法に違反する。後に妻となる女性と知り合ったのは、1990年代半ばであったのだが、一度新宿で「まだそうした注意書きが残っているか、確かめよう」と一緒に探したことがある。その当時には、まだ広場ではなく通路であるという注意書きは残っていた。
僕は、真崎守氏の作画による「共犯幻想」という劇画(斎藤次郎氏の原作によるこの本は、はっぴいえんどの作詞家であり、ドラム担当であった松本隆氏の「風のくわるてっと」や「微熱少年」を出したブロンズ社から出されている。)によって、西口広場の歌声の集会について知った。とてもロマンティックに描かれている。何かの運動に参加することの昂揚感が、余すところなく描かれている。同じ意思を持った方々と出会い、一体感をおぼえる作品世界の描写に、憧れすら抱いた。けれど、そうした昂揚感の抱える両刃の剣、危険な側面も、やがて意識していった。
「昂揚感は、全体主義と紙一重ではないのか。」
この自分に対する問いかけは、その後も長く僕の中にこだまし続ける。何かの作品を発表することで、受け手に感動を与える行為というのは、結局洗脳と同じことではないか。
賛辞、というものが作品の送り手に対して、とても残酷で怖ろしいものであることを自覚するきっかけにもなった。「あなたの作品に共感しました」という賛辞は、同時に「思考停止するきっかけが出来たので良かったです」ということではないのか。
西口フォークゲリラの方々は、岡林信康氏や、中川五郎氏、高田渡氏の作品を歌う。ときに、その替え歌を。(真崎義博氏が訳したボブ・ディランの「炭鉱町ブルース」は、中川五郎氏の「受験生ブルース」という替え歌になる。この歌詞は、高石友也氏によって旋律を変えられ、コミック・ソングとしての「受験生ブルース」となる。さらに、西口フォークゲリラはこの高石版「受験生ブルース」の替え歌である「機動隊ブルース」を歌う。) しかし、自分たちが意思表明のための道具として一方的に無断で「利用」している歌の原著者には敬意を払わない。無断利用すら、「本来は民衆のものである歌を、レコードにして販売することによって利益を得る、商業主義に堕した連中の歌を勝手に歌うことは、それらを民衆の手に取り戻すことである」といった態度である。(高田渡氏の歌には、こうした行為への揶揄として歌われた、「西口フォークゲリラの諸君達を語る」という作品がある。)
僕は、当時のフォークゲリラが、集会への参加者(通りがかりの、反戦という主旨に同意された一般市民)の方々に向けて配布した、ガリ版印刷(当時流行していた簡易な印刷方法)の歌詞集を所持している。無論、著作権など無視されている。ただ、そうした歌詞集の配布ということに関しては、思い当たることがある。そこには、1950年代に盛んであった「歌声喫茶」という文化の名残もあったのかなと思う。しかし、僕はその辺りの事情についてはつまびやかでないので、多くは述べない。かろうじて覚えているのは、そうした場所で歌われたであろう歌の譜面と歌詞を掲載した新書版の本を、子どもの頃に目にしたことである。必ずしも政治的な歌ばかりではなく、「山の娘ロザリア」や「夜汽車」のような、哀愁を誘う歌も収録されていた。僕が見たのは出版社から刊行された歌集であったが、リアルタイムではガリ版刷りの歌集も配布されていたようである。こうした流れから、路上で配布される歌詞集も生まれたのだと思う。
ある意味、こうした場での一体感や連帯感は、後の、カラオケ文化やエア・ギタリストが現れる場に通じるような、カタルシスを伴うような「一緒に歌を楽しむ場所」であったとも考えられる。そうした、(僕が嫌いな)「声をそろえることによる一体感」といった意味では、1980年前後に登場した「おたく族」(今で言うヲタクは、発生当時はこのように呼ばれていた。)が、好きなアニメの劇場版が公開される前夜から行列して、声を揃えて主題歌を口にすることで抱いた一体感とも似ているかも知れない。
群れ集うことが嫌いであった僕は、そうしたムーブメントからは、どのようなものであれ、常に距離を置いてきた。(否定していた訳ではない。) ただ、共通の価値観を共有できる仲間を探していくという行為の危うさを、こうした動きの中に感じてきたのである。
僕にとっては生まれる前の文化である歌声喫茶に関して、今では小説家曽野綾子氏の初期の作品に、こんなものがある。(といって、僕は曽野氏が原作の映画しか見ていないのだが。) 題名は忘れたが、その物語の中では、歌声喫茶での、その場だけの昂揚感が賛美されることへの危惧が描かれている。
曽野氏に関しては、かつては鋭い問題提起をされた方が、どうなれば現在のように愚鈍そのものの発言をするようになったのか、不思議でならない。映画が元気で、小説原作の映画がどんどん作られた時代に、曽野原作として撮られた映画には、見ごたえのある作品が多い。自分に対して向けるまなざしが甘くなれば、人間はどんどん劣化していくものなのであろう。
こうした話題、当時を知らない若い方々には通じにくい話かもしれない。けれど、僕は避けずに語りたい。どれだけ先鋭的な人間でも、退色していくことがある。しかし、そうした退色に侵されず、距離を置く理性も確かに存在する。
同調圧力を求めるのは、権力の側だけではない。反権力を標榜する側も同じく、周囲を従わせることによって自己を正当化したがる。そうした価値観の醜悪さに、僕は常に対立していたい。
またしても話がそれてしまった。西口フォークゲリラに話を戻すと、頭脳警察のリーダーともいえる存在であったPANTA氏の発言には、「西口フォークゲリラの連中の甘ったれた歌は、大嫌いであった」という主旨のものがある。
リアルタイムで、その活動を経験していない僕にとっては、フィルターを通して二次体験した歌声運動であり、西口フォークゲリラでしかない。
(どうでも良いけれど、相変わらず、あちこちに対して悪態をつきまくっているなぁ。我ながら、反省点も含めていろいろと考えてしまう。) 結局僕は、何かしらの社会的なムーブメントに、媚びることを自己認識の手段としてみたり、その反対に何らかの権威に悪態をつくことを認証願望の道具にしてしまうことのどちらも大嫌いなのである。だとしたら、批判的な内容を含むような文章など書かなければ良いのだけれど。
それでも、書きたいことを容赦なく文章にしているのは、過去の価値観を固定化したくなく、そこから解放されたいからである。
西口フォークゲリラについては、ドキュメンタリー映画が残されている。僕は、かなり以前にポレポレ東中野という映画館で観たと思う。たしか、1970年の全日本フォークジャンボリーの記録映画である「だからここに来た」との併映であったと思う。春一番コンサートの記録映像も、同時上映であったろうか? 詳細な記憶は定かではない。
数年前、この西口フォークゲリラのドキュメンタリー映画について、個人が提供している小さな会場で、ダイジェスト的な上映や、映画の内容に関する会話についての対話が行われたことがあった。新宿駅西口に限らず、あちこちでの反戦フォークの運動や、ステューデンツ・ムーブメントの渦中におられた方々が集まっていた。
「どうして、昔戦争反対の活動をした人々がいたのに、今の日本はこんなに反動化してしまったのか」という発言が、かつて反戦歌を歌われていた無辜の市民の一人であった方から出た後、僕は口にした。
「誰もが、相手に言い勝とうとしたからではないですか?」 これは、僕の持論である。僕は、政治的な活動を積極的に続けながら、そうした方々が挫折したり、追い詰められていく姿を、距離を置いて見てきた世代である。そうした相手を打ち負かせば好いという風潮の中で、一見活発な議論が礼賛された。
しかし、議論に勝つということは、とても虚しいことでしかない。言い負かされた相手はそれを悔しいと感じ、ただ反撃の機会を待つだけである。僕の中には、十代の頃からずっとそんな思いが根付いている。
勝又進氏という漫画家がいる。1960年代の児童漫画誌時代の「ガロ」に、四コマ漫画を数多く描かれた方である。(四コマ以外の作品も描かれている) ステューデンツ・ムーブメントの最中の大学で、実は政治的なことへの興味など皆無な学生が、学生たちから詰問されている大学教員に対して「ナンセンス! (無意味だ!)」という罵声を浴びせて、周囲から喝采を浴びる。これに味を占めた同じ学生が、革命家気取りで政治的演説を行っている学生に対しても同じ言葉の矛先を向けて、周囲からの冷たい視線に晒される。(漫画なので、その程度の表現で済ませているが、この行為、当時の空気の中で実際にやっていたら生命が危険になったかもしれない。)
それぐらい、「理論武装」をして、相手に言い勝てば、凱歌を上げる連中が多かった時代である。けれど、僕は何度でもくり返したい。言い負かされた相手は、ただ悔しいだけ。相手の論点の核ではなく、細部に破綻した点を見つけ出し反論する。双方で、そんな応酬を繰り返し続ける。
僕は、ある時期にとても大きな流れを、それこそ日本の社会を変えるのではないかといううねりを生み出していた学生たちの活動が、「敗北」に終わり、政治の季節が終焉していった原因は、こうした視野狭窄的な議論がくり返された結果だと考えている。(それを、批判するつもりはない。)
そうした気持ちはあくまでも年長の世代という当事者であったという体験からは離れた意見表明である。けれど、ふっと居合わせた方々が口にした。
「あの頃は、否定することがカッコ良いと思われていたわね」
子どもの頃の僕は、そうした自己主張の仕方に触れる機会があった。そして、二元論的なやり取りの応酬に反発を感じた。けれども、そうした世界を単純化した言い合いは、けして昔の世代での話題ではない。短絡的な善悪基準は、ネット社会の時代になってから、かえって多い。
否定したり、言い負かしたりすることが、自分の誉れであると受け取るような感性。自分より成功している相手を、口汚く、同時に感情的に罵ることで得られる、低水位の事故満足感。
そうした価値観は、「造反有理」という価値観に裏付けに支配されていた時代の中で、肯定されていた。
何度も繰り返して僕は口にしてきたが、主張の対立する相手の否定という基盤の上に成立する論理は、不毛なものでしかない。それは、相克すらも生みようがない。ただ、自分たち自身を追いつめていくだけである。その結果が、現在の現実である。どれだけ否定しようが、こんなものは認めないと拒否しようが、確かなものとして存在する社会である。
「何でこんな世界が」と喚き散らすことは、別に否定しない。けれども、自分たちが自分たちの責任で生み出したこの世界を前に、いたずらに絶望や否定を語る群に加わるつもりは、僕はない。
古い世代が生み出した歪んだ世界の、何よりの犠牲者は、今の若い世代、幼い世代である。
自分たちがしでかしてきたことから目をそむけ、あまつさえ他の誰かのせいにして、向かい合わなければならない現実から逃げ出し、今の社会がどれだけひどいかを語る。そうした「加害行為」を僕はしたくない。
一介の生活者の一人として、自分が抵抗を感じるものに対して異議表明をつづけていくだけである。
そうした僕の抵抗の一環を受け入れ、否定のくだらなさについて受け入れて下さった方に対して、僕は敬意を払う。同時に、二元論的に世界を分別していこうとする発想、適当な思い付きで善悪を分別する姿勢に強い抵抗を感じる。
1960年代の後半に、さまざまな社会問題の渦中にある方々に触れる中で、岡林信康氏が歌い、彼をカリスマ的な存在に祭り上げさせた曲がある。「友よ」という歌の、その歌詞を引用したい。「友よ 夜明け前の闇の中で/友よ 戦いの炎を燃やせ/夜明けは近い 夜明けは近い/友よ この闇の向こうには/友よ 輝く明日がある」(岡林信康「友よ」より、部分引用) この歌は、1960年代から1970年代へと変わりゆく時代の中で、数多くの批判を受ける。
例えばアメリカの公民権運動の中で歌われた「勝利を我らに」のような、声を揃えて歌うことができる歌のような位置に、一度は押し上げられながら(同時に歌い手がカリスマ的に扱われながら)、否定されていく。
これまでの連載の中で触れてきた中川五郎氏の「主婦のブルース」が女性を類型化して描くことで、性別による類型化を行っているという指摘とともに、「友よ」の歌詞は具体的な目標を持たないまま感傷的に「力を合せよう」と問いかけているだけの、思慮のない歌詞として扱われる。前述の「共犯幻想」という漫画の中では、この歌は置かれた立場が異なる別々の個々人の心を結ぶ、象徴的な意味を持たされている。
ただ、この歌の続きを引用してみよう。「友よ 君の涙 君の汗が/友よ 報われる その日が来る」(岡林信康「友よ」より、部分引用) ところで、この時代に流行った映画に、任侠映画がある。1970年代後半に評価を得た「仁義なき戦い」以降に描かれた、反社勢力のリアルな闘争を描いたものとは異なる。昔ながらの、労働者の生活を守ろうとする任侠団体(に登場する工事請負業)がある。しかし、「近代化」や「合理化」、ときには「国益」を掲げてそうした雇う側と雇われる側の信頼関係を無視した悪い社長の経営する暴力団が不当な方法で勢力を伸ばしていく。そうした映画に描かれる、明治や大正、昭和初期の肉体労働現場での現実は、多くの出稼ぎ労働者の共感を呼んだ。
僕が若かった頃、労働者を搾取する暴力団の実態をドキュメンタリー映画にまとめようとした監督が殺された。うろ覚えの記憶だが、その意思を継ごうとした監督もまた、兇刃に倒れたのではなかったか。僕は、未見なのだけれど、「山谷(やま)-やられたらやりかえせ」という映画である。
ロック・ユニット頭脳警察のPANTA氏の「綺羅と紛れて」(この題名は、作家で評論家、詩人、イラストレーターでもあった橋本治氏から贈られたものである)は、こうした事実と向かい合って歌われた作品である。頭脳警察時代のPANTA氏は、反逆的な立場にいる自分を演出し過ぎている印象が少しあった。しかし、解散後に「PANTA」という名義を用いたり、再結成した頭脳警察では、そうした妙な意気込みが消えていった。これまた連載の先の方で触れたい「ライラのバラード」という歌は、ただひたすら心を打つ作品である。(頭脳警察、PANTA氏に関しては、後に詳述。)
また、話が脱線している! 明治から大正、昭和初期の世界を描いた任侠映画の中で描かれた、労働者への不当な扱いが、戦後も長く続いていたという話である。スチューデンツ・ムーブメントの参加者が、感傷的に自分の思いと心中していく精神性に共感したのと同じ時代に、映画の中で描かれている不当な搾取を、自分が自ら受けている屈辱的な扱いと受け止めた方々もおられた。
立場が違う方々の意識が、どれだけ寄り添っていたのか、僕は全く知らない。
任侠映画の価値観は、不当にあしらわれる方々に対して、直接的に訴えかけるものがあった。そこで描かれる世界を、実感として受け止める観客によって支持された。そして僕は、この時期に日本を支えてきたのは、歴史に名を残す偉い政治家とか経済家、芸術家ではなく、無理強いされた立場に耐え忍び、あまつさえ見下されながら今であれば「ブラック」とされる労働に従事させられていた、無数の名もない方々だと思っている。
岡林氏の「友よ」は、甘い側面を持っていたかもしれない。しかし、そこだけに収まり切らない価値も持っていたと、僕は思っている。これらに関しては、これまた後述していくつもりである。
2024年 7月 23日