「フォークやロックについて僕が知っているいくつかのこと(9)」奥主榮
3 とりあえず、URCというレコード会社について語ろうか(4)
※ 一点、以前の記述に対する補足を加えておく。
高石友也氏に関して、日本ビクターからのみアルバムを出したという記述をしたのだけれど、URCからも音源は発売されている。1970年代の半ばに出された、「関西フォークの歴史」というアンソロジーの中に、何曲か歌が収められている。
また、URCが倒産した後で、何回かその未発表音源がアルバム化されたことがあるのだけれど、その中には高石氏の楽曲を収めたものがある。(倒産後の音源に関しては、いろいろな背景があるので、後に詳述する。)
さて、閑話休題。
1960年代後半に起こった事件に、未成年であった永山則夫氏による、無差別連続射殺事件があった。
当時、「金の卵」と呼ばれた集団就職の子どもたちがいた。安価な労働力の担い手として、高度成長下で不足している働き手の数を補完するものとして扱われていた。ただ、名称は金の卵としておき、見せかけの上で歓迎を装う姿は、なんだか考えていくだけで厭になる。「努力は必ず報われる」という神話が信じられていた時代とはいえ、それが万人に対するものではないということは、誰の目にも露わであった。最初は好条件を提示しておきながら、実態はそれとかけ離れた労働実態。現在の状況と余り変わりのない社会。今と違うのは、それでも努力によって格差を飛び越す可能性が今よりも遥かに高かったことだけである。だから、多少の無理難題を我慢できたという時代背景もある。
この辺り、非常に繊細な話題なのであるが、高邁な理想や正論によって黙殺される存在というのが世の中には存在する。ある立場の正当さを担保するためには、存在してはならないものとして、予め存在しなかったものとされていく、そうした方々である。例えば、刑務官の職務としての死刑執行。死刑制度の賛否について語られる方々も、直接に誰かの生命を奪う立場におられる方々の存在については触れない。ただ、「職務として誰かの生命を奪う」立場におられる方々を置き去りにしていく。けれど、実際に死刑を行うという行為に関しては、多くの方々が触れようとしない。僕は、裁判員制度などよりも、死刑執行人制度、死刑判決を下された人間を死に至らしめる行為こそが、多くの一般市民に共有されるべきことだと考えている。
個人的な経験を記す。僕は以前に働いていた会社で、契約社員という立場であった。しかし、契約中に事故に遭い、入院とリハビリを余儀なくされた。契約していた会社は、本当はすぐにでも契約打ち切りをしたかったのかもしれない。しかし、解雇に関してはいろいろな規定がある。「労基に抵触しない」解雇は、有給消化、そして契約故の時間数労働の(怪我による)激減により、収入は極端に低下した。その後の失業時代。失業保険は、職を失う直前の収入によって支給額が左右される。雇われている人間を保護するはずの制度が、僕の失業後の生活を困らせた。
そんな経験があるので、社会制度というものが両刃の両面を持っているのだと実感している。
保護という名目の制度から放置される自分。遵法という形で実は誰かが追い詰められていく実態。だから僕は、そうしたことがらから目を逸らしたくない。
自分と同じく、制度からふるい落とされていく存在から、目を逸らしたくない。そんなふうに、改めて自分の立ち位置を確認した。運よく、条件の良い次の仕事がすぐに見つかったのだが、あのときの不安な気持ちは忘れたくない。
永山事件と呼ばれる話題に関して、過剰なほどに多くの分析や書籍が書かれている。そこに僕は、屋上屋根を重ねるような行為はしたくない。
現在であれば、むしろ育児放棄や虐待という側面が取りざたされるような家庭環境の中で、永山氏は育った。そして、上京して集団就職の一人として仕事についた後、さまざまな形での悪意を向けられる。そうした中で、仕事を失った永山氏はバイトを転々としながら、米軍基地から盗み出した銃で、自分とは無関係の相手を殺害する行為を繰り返す。
盗んだ拳銃による、連続射殺事件は、世間の耳目を集める。政治的な閉塞の時代の中で、テロリズムに憧れる人々も多く存在した。しかし、実際に逮捕されたのは未成年。あえて指摘すれば、誰かを殺す必然性などなかった。しかし、この事件はさまざまに拡大解釈されていく。
高度成長期から取り残された不遇な階級による体制へと反逆であったといった色彩が重ねられていく。
獄中の永山は、詩を書き始める。事件を起こすまでの自分を語り始める。「無知の涙」と題された、その中の一篇である「ミミズのうた」に曲を付けて歌ったのが、フォークシンガーの高田渡氏であった。「目ない 足ない おまえ ミミズ/暗たん人生に/何の為生きるの/頭どこ 口どこ おまえ ミミズ/話せるものなら/声にして出さんか/心ない 涙ない おまえ ミミズ/悲しいのなら鳴いてみろ/苦しいのなら死んでみろ/生まれて 死ぬだけ おまえ ミミズ/跡形もさえ消され/残すものない憐れな奴/おい誰か やい誰か おまえ ミミズ/踏んづけられても/黙ってる阿呆な奴/判ってる 知ってる おまえ ミミズ/先っちょ気持ちばかりに/モコチョコ動かすだけ/ニョロニョロ 這いずり おまえ ミミズ/チョロ遠く出過ぎて/日干して果てただ」(永山則夫「ミミズのうた」より、全行引用)
この「無知の涙」という詩集の成立過程については、義務教育をろくにいなかった永山氏が編集者のアドバイスを真剣に受け入れて、生み出すことができた一冊であるという話を聞いたことがある。そして、読み手の心にダイレクトに訴えかけてくるナニモノかが確かにある。高田渡氏が曲を付けたのも、父親が詩人であった高田氏の心に届くものが、この詩の中にあったのだからだと、僕は思っている。
ただ、永山の存在というのは、政治の季節の中で祭り上げられていく。後に高田氏が、ザムザ阿佐ヶ谷の「我走する者」という企画で歌うとき、「こんなに好い詩を描いていたのに、周囲の影響で観念的な屁理屈を言ってくるようになった」といったMCをするのを耳にしたことがある。
小説家の中上健二氏、映画監督の若松考二氏、それぞれが永山氏へのオマージュとして残した文章や作品には、そうした時代背景が強く反映されている。これらは、それぞれ優れたエッセイや、映画作品である。しかし、一方で支援者のかなり偏った価値観によって、永山氏は高田氏の指摘のように、徐々に頑なになっていく。
そんな永山氏の詩集を偶然読み、作者の背負ったもの(射殺事件)について何も知らずに、「優しい」と受け止めた女性がいた。後に獄中の永山と婚姻関係を結ぶ、新垣和美氏(以下、これから紹介する書籍の表記に従い、ミミ氏と書く)である。無心に詩集を読み、作者に憧れた女性との往復書簡が「死刑囚 永山則夫の花嫁」(嵯峨仁朗・柏艪舎編集、発売 星雲社)にまとめられている。既に硬直した価値観を持ち、自分の犯罪は階級闘争の一環であることを理解できなければならないと言い張る永山氏。それに対して、人間としての永山氏に対して自分の思いを訴えていくミミ氏。彼女の詩も、一行だけ引用されているが、とても切実なものである。
永山自身と同じように、やはり、「国語教育」を受けていなかったミミ氏に、永山氏が自分が編集者から指摘されてきたような「日本語の文章の書き方」をアドバイスするくだりは、何か微笑ましい。
ミミ氏は、戸籍に登録されないまま育った子であったという。以前に、テレビのドキュメンタリー番組で彼女が、沖縄に生まれ、成人してから自分の戸籍を手に入れるために苦労したという話を見た記憶がある。そのときに、国外の父親であれば、どこの国の出自であるかによって必要な金が左右されるという理不尽さと付き合わされたという話が出ていた。
人が人として扱われないことの苦痛。
その痛みに対する共感が、彼女を彼と結びつけたのかもしれない。
彼女との婚姻へと至る過程の中で、彼が考え、法廷で証言したことは、裁判官の心に届き、一度は死刑判決が覆される。
しかし、1990年代、未成年による凶悪犯罪が耳目を集める中で、おそらくは「見せしめ」の意味で一度は覆された死刑判決が再び下される。荒れ果てた永山氏の気持ちを、ミミ氏は受け止めきれなくなり、獄中結婚という関係は破綻する。
永山氏の死後、射殺事件による被害者遺族の方々によって受け取りを拒否された著作物の印税は、南米の国の子らへの支援として使われるようになった。そんな他所の国の貧しい子らの存在なんぞ、僕を含めて多くの第三者にとって特別に何かをするようなものでもない。 けれど、永山氏はその遺産を、自分と同じような道を辿る子が一人でも減るようにという選択をした。そのことを、ことさらに祭り上げるつもりはない。被害者やその遺族にとっては、永山氏はただ、嫌悪すべき対象でしかない。
ザ・ディランⅡというバンドがあった。(後に詳述)
1972年に出したファースト・アルバム「昨日の思い出に別れをつげるんだもの」の中に、「子供達の朝」という歌が収録されている。ライブでは、「永山則夫に捧げる歌」として披露することもあった。永山則夫氏という存在を、政治的な文脈から切り離して描いている。非常に優れた歌だと、僕は思っている。以下に歌詞を引用する。
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子供達の朝
朝の光から 閉め出された子供は
今日も風のように この街を行く
15の時に耳にした 祭りの噂に夢託し
遠いところへゆくんだと 一人家を出た
でも街の中では 誰もが同じ
ネオンサインに恋して けだるさに抱かれて
冷たい石の壁に 行く手はばまれて
雨降る街の中を 一人しずんでいく
カーニバルの夜更けに 人ごみの中に
子供達の求めるものは 魔法使いと王女様
派手な人形たちが 衣擦れの音させながら
子供の前を過ぎるとき 街の夢を知る
田舎者という言葉に 口唇かむけど
小さなヤクザにも なれやしない
母親たちのおとぎ話が 幼い時聞けたなら
子供達の朝は手の中で 笑っていただろう
母親たちのおとぎ話が 幼い時聞けたなら
子供達の朝は手の中で 笑っていただろう
(作詞、象狂像、全行引用)
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まだ、児童虐待やネグレクトという言葉はなかった時代である。それでも、こうした歌を書かれた方はおられた。作者の象狂像氏は、後に矢沢永吉氏などに歌詞を提供していく西岡恭蔵氏が初期に好んで用いていた名前である。
今となっては結果論でしかないのだけれど、事件が明るみになっていく初期の段階でこうした視点から語る方が多くおられたら、事態は捻じ曲がらずに済んだのではなかったかと感じることがある。(あえて多くは語らない。)
2024年 8月 4日