「伊藤野枝について」奥主榮
一
大正時代、東京の女学校に生徒たちから親しみを込めて「西洋乞食」というあだ名を付けられた英語教師がいた。おそらく、その才気が周囲の人々を魅了し、特に自分を飾らなくても、「この先生は自分たちのありのままを受け入れてくれるに違いない」という印象を与えていたのではなかろうか。
そんな男の勤める学校に、九州から一人の少女が入学してきた。彼女は「本人の希望通りに東京の学校に通わせる代わりに、卒業後は親が決めた許婚者のもとへ嫁ぐ」という条件を受け入れて、家から東京への進学を許されたという話を読んだ記憶がある。(異説もある。)
しかし、卒業後の結婚生活で、彼女は婚姻関係にある相手との性行為を拒む。そして、郷里を捨てて、女学校の英語教師を頼って上京する。当時の倫理観の中で、当然教師は失職を余儀なくされる。一方女性は「青鞜」を基盤に積極的な言論活動を続け、「自由恋愛」という主張をしていたアナーキストの男性と知り合う。そうして、英語教師を捨てて、アナーキストとの生活を選ぶ。しかし、既に複数の女性との関係があったことから、刃傷沙汰が起こってしまう。
女生徒の名は伊藤野枝。西洋乞食は辻潤。アナーキストは大杉榮。それぞれに名のある方々である。さらに、関東大震災の折に、伊藤野枝と大杉榮が、後に満洲国の実質的な支配者となる憲兵隊の甘粕大尉によって虐殺されたことから、これらの経緯はドラマティックに語られることが多い。実際、こうした経緯を詳細にまとめた瀬戸内晴美(後の瀬戸内寂聴)の「美は乱調にあり」と、その続編である「諧調は偽なり」の二作では、伊藤野枝という女性は自我が強いために衝動的な人間として描かれている。僕も、そうした伊藤野枝の像を信じていた。
けれど、そうした印象が失せたのは、2020年の末に、コロナに感染して隔離入院となった際に、「伊藤野枝全集」を読んでからである。僕が読んだのは、翻訳などは収録されていない全集で、後に翻訳なども収録された「定本」が出されたことも知った。ただ、ご本人の残された文章だけでも、十分に「衝動的」という世間一般のイメージとは無縁な方であったことが分かる。
二
親の決めた許婚者との関係を拒む。
手塚治虫が、北一輝を描こうと思いながら、雑誌の編集方針の転換で「第一部終了」として不本意に終わらせた漫画に、「一輝まんだら」というのがある。この作品の取りあえずのラストでは、親の決めた許婚者との婚礼の後に、貞操体を身に付けた女性が、あくまでも意に染まぬ相手との性行為を受け入れられない姿が描かれる。若い頃の僕は、そうした描写に、やや唐突で不自然であるという感を抱いていた。
けれど、その後になってから、児童画家であるいわさきちひろさんの伝記を読んだ。子どもの成長の、数か月の差を描き分けるという繊細な絵本作家であるいわさきさんが、やはり若い頃に親の決めた結婚を受け入れられなかったと知った。その結果、形ばかりの伴侶を自死へと追いやったということも。
こうした話に触れていくときに、結婚が家の問題であり、女性の意思などは顧みられなかった時代というものについて思うのである。
貞操(処女であること)が価値であるとされた時代に、そんな形で反意を表明された方々もおられたのだなと、そう受け止めた。(いわさきさんが負われた、許婚者の自死って、どれほど重いものであったのだろうなと思う。) それはさておき、女性はどのような立場であろうと、不本意な性行為を拒む権利がある。
今では当然な、そんな主張が伊藤野枝のスタートラインであったのだ。
三
例えば不本意な結婚の後で、九州から東京へと向かう旅路。
あたり前のことだけれど、彼女一人の思いつきで為しえることではない。その道中には、何人かの協力者が存在したことが、残された文章からは読み取れる。けして衝動的で奔放なだけの人間に為し得ることではない。
東京に出た時点で、伊藤野枝は周囲から与えられた女性という立場を生きる、受動的な生き方から、自らの考えで意思決定をし、自分の人生を選ぶという選択をしたのではないだろうか。
例えば、辻の元を去った経緯について、彼女が書き記している根拠は明確である。そこには、日本で最初の公害事件と呼ばれている、足尾銅山事件というのが関わっている。
僕が子どもの頃(1970年前後)には、公害というのは告発されるべきものへと転換していく時期であった。しかし、それ以前には、経営者の利益を損ねるとか、ときには国益を損ねるといった理由で、批判することが禁じられた問題だったのである。(例えば、敗戦直後に撮られた原節子主演の「白雪先生と子どもたち」という映画には、自分の経営している工場が出している廃液が小学校の校庭を流れる小川に流れ込むことに対して抗議した学校教師に対して、工場社長が自分の利益を損なわせようとしていると反論する描写がある。) 公害という、現在の時点では悪とされる事例についての認識が、そのように入れ替わった時期があったことを前提にして、伊藤野枝と大杉榮について考えていっていただければと、そう思う。
辻は、深い思いを抱えた人間ではあったが、社会的な問題に関しては距離を置いていた。むしろ、冷笑的な視点を持っていたと言っても良い。辻の書き残した文章は、随想的な要素が多いものが殆どなのだけれど、その中にある程度小説的な要素を持った作品に、「一滴の水」というのがある。顕微鏡の像の中で、小さな生物たちが相争ったり、殺し合ったりしている様を、誰やらに見せる。すると相手は、これが人間のリアルな生活であるといった感想を、あたかも自分とは無縁のもののように口にする。それに対して、語り手は「なぁに、一滴の水の中のことさ」と答える。
知的であるが、何ものにも寄り添わない。そうした辻の姿勢に、伊藤野枝は違和感を覚えていったのではないだろうか。彼女は、足尾銅山から排出された鉱毒を貯蓄する場所として廃村とされた、谷中村を大杉榮とともに訪れる。(ちなみに、このときに貯蓄された鉱毒は、東日本大震災のときに漏れ出ることとなるが、その詳細についての報道に、僕は触れていない。) 荒れ果てた地域に、それでも住んでいる方々の姿に触れるうちに、彼女の気持ちは辻を離れ、大杉へと移っていく。
こうした経緯を見ていると、伊藤野枝と大杉榮の関係は、けして周囲を顧みない軽率なものではなく、情緒ではなく同じ問題意識を抱いていた二人の個人の強い共感によるものではなかったのではないかと、僕には思えるのである。
四
与謝野晶子が提唱した、婦人参政権に関する主張に、伊藤野枝が反論した文章がある。一見、「婦人参政権」に抗うことは大正デモクラシーの時代に逆行する行為に思える。
しかし、実際に読んでいくと、夫が選挙に立候補するから、「うちの夫に投票してください」と各戸を回る、婚姻関係にある男性の付属物であるような立場を、政治への参加と能天気にも主張している与謝野への反論なのである。言うまでもないが、さらに時代が下り、1945年に大日本帝国が第二次世界大戦で惨敗するまで、女性に選挙権は無かった。
僕は、選挙権がない立場からの政治参加の主張をするよりは、対等な権利が与えられていなくても、一人の意思を持った人間として、自分の明確な主張をされていた伊藤野枝の立場を肯定する。
ときに、取沙汰される「与謝野晶子は、『君死に給ふことなかれ』を書いたが、太平洋戦争のときには、戦争賛美の詩も書いた」といった、軽率で部分的な知識の寄せ集めの馬鹿らしい指摘は、こうした自分の立場をどれだけ冷静に観察することが出来ていたのかという要素も含めて、考察された方が良いであろう。与謝野のように、感傷によってのみ政治を語るか、伊藤野枝のように、検証をもって発言していくか。情緒によって政治を語ることは、他人を扇動していくことにもつながる。(この辺り、詩の朗読とかにも通底している問題だな。)
実際に伊藤野枝が書かれていた文章を読んでいく限り、その内容は論理的で、むしろ同じ時代の歪みを感じさせてくれる。後世から付けられた、「奔放」といったレッテルに、僕は齟齬をおぼえるのである。
時代背景というフィルターを外して伊藤野枝の文章を読んでいくと、ただ、まっとうな主張をされていた個人の肖像しか、僕には浮かばない。
それを受けとめきれない世間の方に、僕は拒否感を抱いている。僕は、情緒ではなく明確な論理をもって、自分が世間に対して抱えている齟齬を語り続けていきたい。
これもまた、感傷に過ぎないかもしれないが。
二〇二四年 三月 一〇日