「伊藤野枝の子どもたち」奥主榮

2024年07月10日
伊藤野枝、辻潤、大杉栄(註)にかんしてのそれぞれに対する個人的な気持ちを、こちらの抒情詩の惑星に綴らせていただいた。当然、それぞれの作家に対する強い思い入れはある。ただ、それ以上に伊藤野枝の生んだ子たち、あるいは野枝を育てた母親についても、孫引きのような記述で紹介したいと思う。



       一

 伊藤野枝が、親から決められた結婚相手との関係から脱走したという話題は、野枝の奔放さを語る際に蒸し返される話題である。しかし、九州から東京への鉄路の旅路は、協力者なしに成立しえないものであった。野枝が残した文章を読む限り、そのための用意は周到なものであった。彼女は極めて理知的な思考の持ち主であった。そうして、おそらく女性であるというだけで見下すことが当然であった時代に、その知性は彼女を憎悪の対象へと追いやった。最終的には「常識」と名づけられた理不尽な因習に囚われずに振る舞う彼女と大杉榮は、その天衣無縫さゆえに兇刃に倒れることとなった。(命令を下した憲兵隊の甘粕大尉に対する形の軽さに関しては、真犯人が別にいたからという説もある。これに関しては、近代史のタブーの一つという噂もある。)

 伊藤と辻との間には二児、一(まこと、以下はひらがな表記にする)と流二が生まれた。長男のまことは、漫画家となる。漫画といっても昨今イメージされるようなストーリー漫画ではない。北澤楽天や岡本一平の系譜に連なる風刺漫画家である。また、山岳に関するエッセイなども数多く残している。風刺漫画に関しては、みすず書房からまとめられた著作集に収録されている。山岳に関する文章は、山と渓谷社などから書籍が出されている。
 僕が印象に残っているのは、岡本喜八監督の「肉弾」という映画の中で、辻まことのイラストが使われていたことである。1960年代に、東宝が戦前の日本を描いた映画を、シリーズのような形で公開していった時期があった。その中の一作として、同じ岡本監督による「日本のいちばん長い日」という作品があった。大東亜戦争終結ノ詔書(いわゆる玉音放送)がラジオ放送される1945年8月15日までの一日を描いた作品である。鳥瞰図とも言える視点から、さまざまな立場からの、その一日を描いた力作である。この映画の中で僕は、個人的には敗戦が決定している時点で、多くの公文書が焼き払われていくシーンが印象に残っている。占領軍に見られてはならない文書を、破棄していく煙が天空に向けて上っていく。慌てふためいたその行為が、初めて見たときには小学生であった僕には、少し理解できなかった。親に、これは何をしているシーンなのか尋ねたら、一瞬考えた後で、「悪いことをした人たちが、自分たちのしたことの証拠を焼いてしまっているのよ。」 分かりやすい説明であった。都合の悪い歴史を改竄して無かったこととする種子は、大日本帝国とやらの崩壊する以前に蒔かれていたのである。後に、そう思うようになった。
 この映画の監督には、テンポの良い娯楽活劇、ドンパチ主体の戦争映画を撮ってきた岡本喜八が監督に選ばれた。しかし、映画を撮り終えた後で、岡本監督は自分の記憶している戦争と、自分が監督した作品との間に齟齬を感じていた。そして、自主制作にも近い形で「肉弾」という映画を撮ることとなる。
 なんだかよく分からないまま、戦争という名の下に理不尽を強いられる時代に生きることになり、それでも当たり前の欲とか希望は持っている、ごく普通の主人公「あいつ」。周囲の状況に振り回されるまま、「軍神」という立場に追いやられていく状況。この映画の中で、僕が一番好きなのは雨の中を傘をさして歩いていた主人公が憲兵に「どこの国に傘をさして歩く兵隊がいる」と咎められるシーンである。それに対して主人公は、「自分は明日から神になります。だからせめて今日一日だけは、人間らしいことがしたかったのであります」と答えるシーンである。上から押し付けられる主義主張。けれど、それと馴染めない自分。集団生活に馴染むことができないまま、高校卒業までの時代を過ごしていた僕は、「今日だけは傘をさして歩きたい」という描写が、突き刺さってきた。(ただし、そんな憲兵も岡本は悪くは描いていない。実はこの映画の中で、主人公を咎めた憲兵がその後に行う行動は、僕の物語創作に強い影響を与えている。) 前置きが長くなったのだけれど、辻まことの戯画は、この映画の中で使用されている。監督の戦争体験が投影されたこの映画の中で、飢えを我慢できない主人公が上官から悪しざまに罵られるシーンで、辻まことの描く絵が挿入される。きわめて印象的なシーンである。


      二

 伊藤野枝と大杉榮の間に生まれた子の中で、ルイズ(伊藤ルイ)が書き残した「海が鳴くとき」は、とても興味深い本である。
 さまざまな経緯を知識として抱えている人間からすれば、辻潤と伊藤野枝の関係は、伊藤が大杉榮との関係を得ることで絶えたようにも受け取れる。しかし、子ども好きな大杉榮は、辻まことともしばしば会っていたらしい。路面電車に乗っているときに(官憲の)尾行を撒くために、幼い辻まことを抱きかかえて車中から路上に飛び降りたら、まことがはしゃいだという挿話が語られている。まことが喜ぶのが嬉しくて、大杉がその後も何回も車中からまことを抱き上げ飛び降りる行為をくり返していたら、伊藤が母親として大杉を叱ったという話題など、きわめて興味深い。
 その主張などから、堅苦しく描かれることが多い、伊藤らの素朴な人間としての側面が活写されている。

 この本の中には、伊藤野枝を育てた(伊藤ルイにとっては)祖母のことも描かれている。祖母が語り残した言葉が記されている。「ルイちゃん、人間はなあ、一生のうちには血の涙の出るようなときが何度もある。そげなときはなあ『こげな苦労は誰にでもできることじゃなか、私にしかできん。私しゃぁいま、その、他人にできんがまんばしよると』そげん思うてこらえな、なあ。/そればってね、自分にできたがまんば他人ができんっていうて嗤(わろ)うたらいかん。人にはそれぞれできるがまんとできんがまんがあるとよ。」(「海が鳴くとき 大杉栄・伊藤野枝へ ― ルイズより」伊藤ルイ、講談社より引用) この言葉に対して、伊藤ルイは次のように綴る。「貧乏をはねのけ、一家の柱として多くの人を養い育て、「野枝」の母としての周囲の罵倒を耐え抜いた人の一生が語らせる、汗と涙によって打ちたてられた哲学である。」(前掲書より) 読んでいて、思わず頭の垂れる言葉である。

 当然、幼い頃に両親と死別したルイズ自身は、父母の記憶などは持たない。むしろ、「主義者の子」という世間の目に晒されながら、どのように精神形成を行ったかが綴られる。周囲の世界に数多く存在する「偏見」と、ルイズ自身がどのように向かい合ってきたのかが語られている。一つ救いであることは、伊藤の郷里の人々よりは、外部から訪れた人間(現地に赴任した役人や学校教師など)の方が強い偏見を持っていたということである。
 ちなみに、江戸時代には寺子屋という民間の制度が担っていた教育が、明治以降政府による義務教育へと変遷していった背景には、教育による日本国民の洗脳を目的としたという側面がある。明治時代の最初の十年ぐらいは、新政府を否定し、瓦解前の制度に戻したいという意見が蒸し返された。また、各地での蜂起も起こった。そうした中で、学校教育によって新国家への帰属意識を持たせ、体制を安定させようという意図が働いた。学校教育というのは、そうした道具として使われたという側面を持つ。
 師範学校そのものが、皇国臣民教育を行う為に設立されたものであった。その為に、陸軍士官学校、海軍兵学校とともに、師範学校は三大人間兵器廠とも呼ばれていた。そうした背景に鑑みても、学校教師が「偏見」を持っていたというということは十分に納得できる。


       三

 伊藤ルイは、戦後になってから、さまざまな社会問題と関わることになる。そうした一つに、在韓被爆者に対する医療の問題があった。
 詳細な内容までは紹介しないが、非常に印象に残っている記述が一つあった。ルイは、当事者と会うことができるが、1970年頃、そうした活動を支援したがっていた学生運動の活動家たちは絶対に会うことができなかった。非常に厳しい反共政策が採られていた大韓民国では、そうした接触があれば肝心の被爆者が処罰される可能性があったというのである。そこで、学生運動とは直接の関わりを持たない伊藤ルイが代理で会うような形になるのだけれど、活動家達とのかなり執拗な論争に疲れたそうである。そうした中には、被爆者が家族からの手紙を、ルイ以外には見せたがらないということに対する批判もあったそうである。ちゃんとした教育を受けていない家族からの、拙い文面の手紙を他人に見られたくないという、ごく素朴な感情からである。ところが、活動家たちは、そうした現実に対して、あくまでも論を張り、言い勝つことを求めてくる。情報を独占してはならない、それらは共有されるべきものである。といった論調で。
 僕がいわゆる「活動家」が苦手なのは、こうした一見真面目に考えを煮詰めているようでいて、率直に言えばどうでも好いことを滔々と語り続けて自己韜晦に陥っていく部分なのである。ご本人がしているつもりの「対話」などはそこになく、相手を「排除」して場を同じ仲間ばかりの集会場にしてしまう姿勢なのである。それは、自分の打ち立てた論理を自らを守るシェルターとして、孤塁を守るだけのような姿勢である。自己完結的な閉塞感しか生み出さない。
 社会問題と関わることというのは、どのような行為なのであろうか。
 その根底に、自分が許しがたいと感じたことをどうにかしたいという気持ちがあることは、どのような場合にも尊重されるべきであろう。また、個々の立場の差異を踏まえた上で、それぞれの立場から着地点を模索することも、とても大切であろう。けれど、性急に「結論」を求め、「これが絶対的に正しい」という主張をくり返しても、それは滑稽なだけである。真剣であればあるほど、滑稽なものでしかない。真剣に何事かを考えているふりをして、対話を硬直させ、勝ち負けにこだわる卑しい精神性を発揮するだけの行為である。

 僕の個人的な体験を記す。
 1970年代の半ば、僕は反抗期ただ中の高校生であった。ただ、私立の男子校であり、非常に不安定な気持ちもあった。公立中学に通っていた頃のように、毎日普通に女性と会話がしたかった。(若く性欲過多な時期の、欲求不満もあった。これは、正直に書いておく。)
 級友が、ロック・コンサートをするという。当時としては、校則とか世間的な常識という制約が厳しかった時代に、そうしたイベントは、反逆行為として周囲に一矢報いるという、そんな意図を込めたものであろうと期待して足を運んだ。そこで僕が見たのは、嬉しそうににやついているバンド・メンバーが、「女の子に差し入れのサンドイッチを作ってもらいました」という報告をする姿であった。どうでも好いような、些細な話題なのだけれど、半世紀近く経っているのに嫌悪感をおぼえる。
 とても凄い表現活動をしているつもりで、自分が反抗したい既成の価値観に寄り添って、その庇護の下で自分の価値を認めてもらいたがっている。そんな印象ばかりが強い、市民会館での小さなライブであった。(以前にもこの話題は描いたかもしれない。)
 ただ、「自分が何か他の人は気がつかない話題に触れている」ことをアピールしたいだけのような表現活動には、それからも多々触れることはあった。そうした連中に限って、実際の行動は古い因習を護持しているような見苦しい活動であることが多かった。話題は脱線するのだけれど、いくつか例を挙げたい。

 1980年前後、藤子F先生の「ドラえもん」が。現在に続く二度目のTVアニメ化を経てヒットしていた頃、こんな論旨を展開された方がおられた。「『ドラえもん』は欧米に輸出されたが、全く受け入れられることはなかった。他人に依存する主人公など、独立した人間が尊重される国際社会では受け入れられないのである。」細かい表現はもう少し繊細ではあったが、概ねそうした主張であった。しかし、実はこの時点で藤子漫画(1980年時点では、まだF・Aの作家区別はされておらず、共同ペンネーム扱いであった)は、東南アジアで人気があり、既に夥しい海賊版が出回っていた。「依存心の強い主人公」が受け入れられる地域について、それを根拠として「欧米の植民地となる土壌」と表現すれば、おそらく先述の指摘を得意になって行った論客は、血相を変えて前言を撤回するであろうことが、用意に想像できた。流行ものを貶めることで、日本の劣等性を主張する姿勢は、同時に「自分が導きたい結論を予め設定した上で」強引に展開するものに過ぎない。自分が望む結論に結びつけるための論旨の破綻は、ただそれを主張する人間がどこまでも自己に拘泥している姿にしか思えなかった。結論が最初にあり、周囲の事象はそれを肯定する為の道具に過ぎないのである。小賢しい理屈を重ねて。(両刃の刃の主張ではある。)

 2022年に公開された映画に、「君たちはまだ長いトンネルの中に」という作品がある。消費税増税に関する書籍を原作としていて、一見良心的な作品であり、観客が多くいた映画館で僕も見た。ただ、妙に映画のアイコンとして「女子高生」という存在が強調されている気がしてしょうがなかった。なんだか、その辺りに抵抗を覚えて、僕は原作を読むことはなかった。今回、この原稿を書く際にこの映画の公式サイトを参照してみた。そこから、原作に関しての一文を引用したい。
「それまで全くの経済オンチだった著者、消費増税反対botちゃんが消費税増税における悪影響を知ったことをきっかけに描いた作品。//国内外から優秀な生徒たちが集まる名門高校に通う女子高生、高橋あさみ。//元財務省の父親を持つ彼女は、消費税増税の闇を知り、政治家、官僚、財界の大物、マスコミ、経済学者など、癖が強すぎるキャラクターたちと対峙し、増税中止を訴えていく物語。」 この紹介を読む限り、現実の高校生女子が消費税増税に関する矛盾を感じて書いた書籍を原作とした映画となる。僕は、原作を読んでいないので、この紹介文の妥当性を語ることはできない。けれども、抵抗を感じるのである。ここで、アイコンとされているのは「名門高校に通う女子高生」であり、そこにさらにべたべたとレッテルが貼られていく。
 観客が多かったことに、僕は悲しい思いを味わった。本来、自分から声を発して主張しなければならない(それがどれほど微力であろうとも)ことを、十代の女の子というカリスマを妄想して描き出し、「こんな良心的な活動をやっているんだぜ」という幻想に熱狂する。なんて見苦しいことなのであろうと、そんな感慨しか持てなかった。こんなもん、見てくれだけで女性の内面を勝手な妄想でつくり上げストーカー行為をくり返すさえない男の発想じゃねぇか。
 そういえば、「正しいことをやっているんだから、どんなテロを行っても構わない」という発想は、付きまとい行為などをくり返す人の「自分の愛は正当なものだから法の規制を受けない」という発想に似ているかもしれない。

 基本的に、僕は自分を「立派なことをしている」とか思っていない。むしろ、誰かの行為を「立派なこと」としてしまう行為に、その誰かが活動のリーダーとして神格化されることの恐ろしさを強く感じている。


       四

 伊藤と大杉の間の第一子「魔子」は、大杉らの死後「真子」と改名される。偉大すぎる親の期待を背負いきれないと書けば、言い過ぎであろうか。大杉と伊藤の間に生まれた子らは、改名していく。ちなみに、改名が容易に行い得たのは、国家による個人の管理を否定していた彼らは、子らの戸籍登録を行っていなかったからである。この点は一貫していたのだ。
 それはさておき、甘粕による虐殺の後、現実的な対応として、子らはそれぞれの道を辿っていく。

 誰かを神格化する行為というのは、神格化される個人を疲弊させる。真子にとっては、そうした期待は不安をもたらすものでしかなかったのであろうか。他の子ら、二人のエマ(幸子と笑子)や、幼くして亡くなったネストルは、理不尽に両親の理想を負わされることを拒んだ。そのことに対する一切の評価を、僕は出来ない。

 既に成立しているあらゆる価値を疑う。そうした、発想。既成の価値観の中で虐げられている人間にとっては解放のよすがでしかないものが、その懐疑的な姿勢ゆえに現在の支配的な思想へと対抗するものとして受けとめられてしまう。それが、皇室というカルト的な信仰を持つ方々にとっては、敵対する「悪」の勢力と受け止められる。(いわゆる右翼の論客の中にも大杉の擁護者がいたにも関わらず、遺骨の争奪戦が行われた滑稽さなど、その極みであろう。)

 そうしたことを思うとき、僕は個人という存在が、どれだけ時代の制約を逃れ得るのだろうかと考えざるを得ないのである。一人ひとりの、個々の信念というものが、所詮はその個々人の生まれ育った時代からの制約から逃れられないものに過ぎないのか、あるいは時代の突破者となりうる可能性を抱いているのか。そんなことを思うことがある。

 そうして、僕はたどり着くのである。

 僕には「結論」など必要ではない。僕はただ迷い続け、そうした中で「どうすれば良いのか」を模索し続けるしかないのでは、と。迷いの中に居続ける自分自身を肯定し、けして「結論」などを求めないことを。あらゆる価値は変転し、相対化されていく。今日神格化されたなにものかは、明日には痛罵の対象と成り果てている。そうした中で、何かの権威などに追随せず、呵々大笑の精神で何事とも向かい合う。誰からも嫌われる態度かもしれない。けれど、誰かから好かれることになぞ僕はもう価値を見いだしていない。そうしたしがらみから解放されることで、僕は何かに支配されないでいられたらと思うのである。註 大杉に関する文章は、後日公開。
2024年 5月 5日





奥主榮