「伝えるということ、手皮さん・寺西さん」 馬野ミキ
数か月前に鳥取県在住の手皮(てび)さんという方からメールが来た
傘寿の老人であると前書きがある
鳥取の書店「汽水空港」のブログより、寺西さん、「抒情詩の惑星」へと辿り着いてくださり
寺西幹仁さんの「とりこ」が掲載されていてびっくりしたと、
読んでほしいものがあるので住所を教えてほしいと書いてあった
※寺西さんとは「詩学」最後の編集長であり、「とりこ」とは寺西さんの詩集「副題 太陽の花」の一篇で
自分が自己責任において「抒情詩の惑星」に抜粋させてもらった
また自分と寺西さんは同じく鳥取を故郷にしており鳥取砂丘で共催の朗読会も行った
手皮さんはそれを地元のメディアを通して知っておられたのだとも。
それから暫くして、スマートレターが届いた
手紙と
手皮さんの携わる詩誌「菱」のコピー数枚と
二枚の写真が入っていた
その一枚は墓の写真であり
もう一枚は何の変哲もない河原の写真だ
メールにも書いてあったのだが、手皮さんは、寺西さんのお墓に参られた
だが生前の寺西さんと面識はなかったのだという
寺西さんの亡き後、古本屋で手に入れた詩集「副題 太陽の花」読むうちに
秋の彼岸も近い。寺西幹仁の眠る墓はこの鳥取のどこなんだろうか。
「菱」179号 編集後記(手皮) より
何とか墓を探し出して、
詩学に殉じたとしか思えないこの男の墓前に香華を手向けたいと思うようになった
「菱」180号 19頁~ 「寺西幹仁君を探して」手皮 小四郎 より
葬儀は郷里で密葬だったから、詩友の誰一人出席している者はいない。没後五年経って、ぼくはその墓を探し訪ねたことがあった。
「菱」192号 17頁~ 「男詩人三人」手皮 小四郎 より
最早、詩誌「菱」180号20頁をそのまま皆さんに読んで頂いたほうが一番伝わるだろう。
手皮さんからの手紙の最後には
「返信等は不要ですので読み捨て下さい」と記してある
河原の写真は「とりこ」の舞台であるという
手皮さんの手紙によると、「菱」は1968年創刊で同人はいまや八十代になり終刊は遠くない事だろう、ということ
自分は、手皮さんに「菱」からの引用、抜粋の許可を得た後しばらくこの文章をまとめることが出来なかった
今もどうまとめるべきか分からない。
「とりこ」寺西幹仁