「叙事詩「海の時代へと」(連載第一回)」奥主榮
序詩
鼠たちの群が半島へと追い詰められている
鳴き声もたてず 地を馳せる彼らは
けれど自分たちが追われている自覚もない
半島にただ集まり 困惑し 沈黙を選び
言葉にしないまま恐怖に駆られ ただ走る
逃げ場のない場所へと向けて ただ走る
群になってしまった鼠には
まるでそれぞれに名前がないようだ
けれど鼠たちにも生命はあり 守るべき自分がある
もしもかけがえのないただ一つの存在が
ないがしろにされてもしょうがないのだと
そんなふうに思い込まされている時代が
目の前に訪れているのだとしたら
鼠たちの群が走っている 辿り着く先に
何かあるのではないかと そんな思いのままに
半島の先から行く先はないというのに
そこから何処かへと行くことができなければ
自分たちで自分を追い詰め ただ
大地を覆(おお)い尽くし
名前を奪われた群 けれど
名前のある一人ひとり 尊重されるべき生命
いくつもの思惑が重なり合い そのことは見過ごされる
生命が その価値が 見過ごされる
何もかもがないものとされていく中で
それでも鼠は 生き延びようとしていく
二〇一八年 八月 四日 奥主榮
PART 1 ユタカ
一 ユタカ
「ユタカ」はどう考えても
男の子の名前 だけれど
ユタカはれっきとした女の子
肉体と精神の性別も一致していた
そんな彼女に不似合いな名前を
思いをこめて贈ったのは施設の職員だった
ユタカは 父親がイラついたときの
腹いせの相手として育てられた
世間の人がよく持つお笑いな偏見
血がつながっていたかいないとかは
実は問題ではなく
怯え続けて生きてきたような
自分がいてはならないのでは という
そんな思いから逃れられず
殴られたりとか
はんせいのことば、を口にさせられたりとか
そうした中で いたたまれない思いになり
逃げ場のない鼠になり
「言葉は失いました 自分は失いました」
一人の人間が そんなふうに生き始めたのです
やけどの痕という幸運な傷が人の目に触れたおかげで
彼女が保護されたとき 施設の職員は
彼女に多くの幸いがもたらされることを祈ったのです
けれど 「幸」とか改めて名づけてしまうと
古くさい名前に 将来悩むかなと あれこれ迷い
「ユタカ」としたのです
鼠はこの名前を誇りに思ったのですが
それを嘲笑う人々もいました
かけがえのない自分の名前を
貶める相手と出会うことが
世間との折り合いの初めだという
ユタカの改めての人生は
そんなスタートラインを切りました
二〇一八年 八月 四日 奥主榮
二 名前をくれた人
名前など呼ばれたことのなかったユタカに
名前をくれた人がいた その人は
施設の職員 いつもおどおどとしていた
誰にも話すことはできなかったけれど
小学生の頃に 性暴力を受けて けれど
自分の体験は「大したことはない」のだと
そう 思いこんでいた
そんな「不満」を口にしたら我が侭なのだと
たしかに生活は満たされていたし
けれども思いは 澱のように心のそこによどみ
周囲と上手に会話したりとか できなくなり
生活はいつも恵まれていた 誕生日にはお祝い
貧しい家ではあったけれど 家族は団らん
そんな恵まれた自分が生きていることに
辛さなど口にしてはならないと
自分がされたことの記憶はものの見事に
封じられ 記憶の底に追いやられ
ただ全身にずっしりとした何かが
纏わりついてくる感覚だけに いつも
囚われ続けて くり返し囚われ続けて
誰も愛することのできない自分が
それでも誰かの支えになることが
そう できたらと望み続け
やがて今の仕事とめぐり合い
まだ名前のなかったユタカと出会ったときに
不器用に「ユタカ」と呼んだとき 名前のない女の子は
そいつに目を向けて それだけで
女の子は ユタカと名づけられることになった
だから、その思いはいつも
ユタカがより良い人生を歩めるように と
だからその思いは
ユタカが誰よりも幸福でありますように と
二〇二〇年 四月 一九日 奥主榮
三 わらい
炎天下の歩道で お母さんの日傘をくるくる回して
まだ小さな子が 満足そうに笑った
一人暮らしの狭いアパートに移した仏壇の前で
老人が両手を合わせ 静かに微笑んだ
北風の中でコートすらも風に奪われそうになり
スーツの内ポケットに入れた写真に指を触れた人
老人は押しとどめられない 先へと駆けていく孫を
注意する声を届かせることは出来ながら 不安そうな笑みを
笑う人も 周囲にいる人間も
そのどちらも幸福にする
そんな笑いがある
けれど 世界には
嘲笑う人間も 嗤う人間も
確かに存在していて
ユタカを包むわらいは そんなものばかりで
ユタカはもう 誰からも
直接の暴力は受けなくなっていたのに
わらわなくなった わらえなくなった
わらわないユタカを周囲は問題にして
わらわない原因を追究した
そうして ユタカのたった一つのよりどころ
ユタカに名前をくれた職員が馘首された
その人の前ではユタカはわらわない自分でいられた
その人の前ではユタカはわらわない自分を許せた
ユタカは自分からその人に微笑みたいと思った
ずっとしたことのなかった表情を浮かべてみたいと思った
けれど、そのことを嘲笑われるのではないかと
ずっとずっと 躊躇っていた
その人の前でわらいを浮かべないユタカを
周囲は問題にした
わらおうともせずにその人のそばにいることから
いつしか悪いうわさが広まった
誰が口に出したのかも分からない
あの人がユタカに何かしたのではないのか
おかしなことをしていたら 大変だ
もしも何かがあったとしたら不祥事だ
この時代 大ごとにされてしまう
いてもらっては迷惑だ
ユタカに名前をくれた人は馘首された
ユタカは そっと微笑みかけるきっかけを失った
歪んだ笑いが人から嫌われるかもと
おずおずしていた自分が すがれるかもと
そう思っていた相手を失った
二〇一八年 八月 五日 奥主榮
四 宙を舞う綿毛
街にタンポポの綿毛が降り注ぐ
ふわふわとしたものが夥しく降り注ぐ
一歩いっぽを踏み進めるだけでも
それだけのことでも傷ついてしまう
自分の心を包み込んでくれるような
そんなものを探している
小さな存在が 小さな足どりで
行き着くことができる場所を
探し求めている
この世界にそぐわないものたちが
追いやられていく 鼠の群が
いき場所を失くしている
救いを求める声すら出せないままに
そうして 半島を目指していく
暖かい光に包まれた街は
限りなく残酷だ
善意と思いやりに満ちあふれた街は
限りなく残酷だ
そんな街にまやかしが降り注ぐ
甘い言葉 夢や未来を語りかける言葉
そんなまやかしを重ねることで
たぶらかした相手を 自分の滅びへと
付き合わせる
街に善意や温かさが満ちあふれる
満ちあふれるほどに誰かが行き場を失い
そこに入っていくことのできない
自分をいたずらに責めながら
追いやられていく そして
頼りないものへとすがたを変える
街にタンポポの綿毛が降り注ぐ
頼りないすがたのものが
それでも繰り返し現れてくる
二〇一八年 八月 五日 奥主榮
五 し・ご・と
ユタカが義務教育を終えて
ユタカが仕事に就いたとき
いちばん そのことを伝えたい相手は
もう身近にはいなかった
いろいろな人々から 「良かったね」と
そう言われる日々 けれど その声音や
忙しそうな気配の中に
また ユタカは居場所を見失っていく
寄る辺ない時代の中で
帆を失ってしまったことに気が付いていない
そんな船のように 半島から先へ逃れていく
水先を見い出すための その術は損なわれた
いつしか、小さなたくらみがユタカの心をよぎる
善意のままに自分を追いやった世界への
憎悪だけを心に残したまま ユタカは居場所を失う
ユタカは社会的に認知された
し・ご・とを得た それは
「無理にでも喜ばなければならないこと」
自分の幸運に感謝しなければならないこと
それができなければ 自分はただの人でなし
いてはならないもの
たった一人の大切な人に喜んでもらえない
そんな中での、し・ご・とを ユタカは耐えた
「こうしなければならない」
「こうしなければならない」と
自分の心を殺して
い・ち・に・ん・ま・え とかになれれば
自分に名前をくれた
その相手と また出会えると思ったから
そうした思いにしか
縋りつくことができなかったから
けれど そんなふうに
必死になって生きようとすることで
ユタカは コ・ワ・れた
仕事に間に合う時間に起きて
出かける支度を始めようとして
そのまま 動けない うごけない
自分を責める ダメなヤツだと思う
どうしようにもならないことで
自分を責める 他に何ができる
情けないと 自分を責める
責める ほどに、動けなくなる
どうしてだか分からない
焦る、苛立つ、腹を立てる
もっとちゃんとしなければ
まともに行動しなければ
世界には、辛さに耐えて
きちんと振る舞っている人間が
いくらでもいるんだ そんな
強迫観念に責め立てられる
でも、できない 恐怖に襲われる
自分が本当にダメな人間で
この世界のどこにも身を置くことが
許されていないのではないか
そう思うほどに、身動き一つ
できなくなっていく
「仕事を放りだしたヤツ」
「やっぱりああいう連中は」
誰一人そんなことを言わなかったのに
ユタカの心は そんな思いに捕らわれた
そこから解放してくれる誰かは もう
ユタカの前には存在しなかった
二〇一八年 八月 六日 奥主榮
六 街に雨が降り注ぐ
街に雨が降り注ぐ 雨の冷たさを
やさしいなどとは言いくるめるまい
居られる場所を失い ただ居心地の良い場所を探す
そんなユタカにとっては 地面を水たまりにして
ベンチを濡らし 全財産を水びたしにする
そんな雨は呪わしいもの
街に雨が降り注ぐ 偽善者たちの
自己欺瞞を嘲笑するように 雨はただ降り続ける
迷子は家庭に戻せ やら 子は親の元へと
そんな退屈な言い分
生命すら断たれそうになった 子どもらが
逃げ場所を失い 途方にくれている
街に雨が降り注ぐ その為に居場所を失う
そうした一人ひとりのすがたを
まるで ないもののように
大らかな善意は語りかける
鼠は駆除されるべきだと
満面の笑顔で語りかける お前は
殺されても良い存在なのである と
街に 無情の雨が降り注ぐ
追い詰められたものがたどり着ける場所が
どんどんどんどん 損なわれていっている
二〇一八年 八月 六日 奥主榮
七 善意
悪意のないものが誰かを追い詰めていく
善意という名の暴力で誰かの居場所を奪う
善意の塊の好意が 誰かを追い詰めていく
やさしさの中でいたたまれなくなり
そいつについて語ることは簡単だ
けれど誰も救われない
どれほど語ろうとも
誰も救われない
暴力を振るうのは良識
世界が秩序によって成立していること
そんなことに縋っている感性
そうした中で 見えない暴力に耐えていた
頼りない心が矯められていく
寄る辺ないものであることが
責められる根拠となる
居る場所のないことが
忌避される根拠となる
慰霊の場所は名の残されたもののため
居場所のないタマシイが
重ねられる言辞の中に生み出される
ユタカのことを
忘れていない人たちもいる
何か妙で どう馴染んだら良いのか
それすらも分からないまま
いつの間にか姿を消していた友達
何か良いことをとか そんな意識もなく
ただ 気になっていて
そんな一人が姿を消すのは悲しくて
一匹の鼠にも名前があるのだと
一匹の鼠として知っていて
半島へと走り出す群の一人ではなく
けれど 走りださずにいられない何ごとかを
切実な何かをおぼえ 走り出していて
そうした思いがユタカに届く
そんなことはけしてない
二〇一八年 八月 七日 奥主榮
八 洪水の時代
街に 青白い水が満ち溢れていく
危険信号が繰り返され それでも
誰も逃げ出そうとしない
何も起こっていない
そんな意識が醸成されていく
語られ、拡大していく
街に 青白い水が満たされていく
声を押し流していく
祈りを押し流していく
街に波が押し寄せる
そこなら安全だと提案しながら
姿を消していく夥しい人々
やさしげに一度は差し延べられる手の群が
失せていく 形を失っていく
街を 青白い水が覆っていく
声を押し流していく
祈りを押し流していく
二〇一八年 八月 七日 奥主榮
九 殺戮(1)
ユタカは殺された
大勢の中の一人とされることで
その存在がないものとされて良いと判断される
そのことで 虐殺された
鼠の群が半島を目指していく
殺されるという恐怖感に駆られ
自分が小さな存在だと思い込まされ
まるで使い捨てられるもののように
思いつめて
動物としてのユタカは
まだ死んではいない
生きているけれど 自分で
その意義を見い出せない
屍だ そして自分を否定している
居場所のないこの世界に耐えられない
自分を殺した 自分を放棄した
そのことを知っているから二度と
自分を許せない
死んでいる自分 居場所のない世界
その中でただ 肉体を生き延びさせていく
それがユタカの世界
トシキと出会うまでのユタカの世界
出会わなければならない方が良かったかもしれない
二人の間に生まれた世界
PART 1 ユタカ 完結
二〇一八年 八月 八日