「叙事詩という試み」奥主榮

2024年12月23日

 僕がまだ十代だった昭和の頃には、欧米に存在するような重層的な大作は日本人には作れないという言説が横行していた。スポーツ界での例となるが、例えば短距離走の世界では、ある時期まで、日本人の体形では百メートルを十秒未満で走ることは不可能だと言われていたのと同じような根拠である。(この神話は、精神論的な肉体鍛錬手段を廃し、合理的なトレーニングを採りいれることで崩壊した。) 創作の世界では、日本人が生み出す作品というのは、短歌や俳句のような一行詩の韻文や、周辺五十センチの世界を描く私小説、あるいは掌編小説的な短い物語が適しているといった発想だったのである。
 これは、詩歌や小説に限ったものではなく、どんなジャンル(音楽や映画、舞台表現等)に関してもなされた指摘であった。今からは隔世の感がある。逆に、重厚な大作が日本人には作ることが出来ないなどという指摘は、今の若い方々からは理解不能なものかもしれない。しかし、当時は具体的な作品名を挙げて反論したとしても、「欧米の作品に比べて、こうした点で劣っている」といった、重箱の隅をつつくような反論が返ってきたのである。
 ある意味、アホらしいともいえる批評がまかり通る時代でもあった。(それらに関しては、現在では先に書いた「百メートル十秒神話」と同じ末路を辿っている。)

 ひねくれ者の僕は、こうした風潮に抵抗を感じていた。世界中の誰をもうならせるような一本の芯が通った作品をいつか生み出すことが出来たらと、十代の頃から夢想していた。そうした気持ちを抱いていて、高校の卒業が近くなっていた頃には、「一つの宇宙の誕生から滅びまでを描いてみたらどうだろう」という、おかしな妄想が心の中に生まれた。そうして、「シザン」という架空の世界を舞台にした物語を描き始めた。そのとき、小説的なものを描くのではなく、「叙事詩」として語りたいという願望もあった。ちなみに、この「シザン」という名称は、昔児童漫画雑誌「ガロ」に連載されていた佐々木守の未完の小説「日本忍法伝」の中の記述に由来する。(佐々木は、テレビ番組などの脚本家として活躍していたが、数多くの実験的な作品を手がけている。一方で、萩尾望都原作の「11人いる!」を実写ドラマ化した際に、おそらくは思い込みから原作の改変を行って、佐々木の過去の業績を知らない受け手からは激しい非難を浴びた。)
 それはさておき、十代の頃に書いた「シザン神話」という叙事詩の原稿は、冒頭部分しか残っていない。大学入学後に続きを書いた記憶があるが、発刊されなかった同人誌の編集者が散逸させた。他にも、杜撰な管理によって失われた原稿は多々ある。
 やがて三十代の半ばになった頃、「パソコン通信」という発表場所を見つけ、そこで詩を書くようになった。残っていた「シザン神話」の冒頭部分に続けた物語を、連載し始めた。一日数行程度の発表を一年ぐらい続けたであろうか。シェヘラザードにちなんで、千一回の連載で完結させると宣言していた。ただ、あれこれの事情から中断した。その頃、時代は、パソコン通信からインターネットの時代に急速に変わりつつあった。
 全三部作として、神々の時代、神々と人間の共存した時代、そして人間たちの時代として物語は構成されていた。しかし、その後、多忙の為に続きを書く機会はないままである。(最近、全二部構成としてちゃんと完結させたいという気持ちも生まれてきている。) 物語としての全体像は心の中にあるのだけれど、まさか冒頭部分からいきなり結末に飛ぶことは出来ない。再構成は、かなり悩んだ末のものであった。

 未完のままの「シザン神話」とは別に、僕は何度か叙事詩という試みをくり返して来た。たとえば、「海の時代へと」という連作詩。全編を朗読すれば、おそらく二時間を超えてしまうであろう。僕の世代の怠惰から生じた、まだ繊細な世代への責任を痛感して描いた作品である。誰かを救済するために設けられた制度から、それでも取りこぼされていってしまう方々への思いを綴っている。
 あるいは、高校のときに途中まで描いた小説を基にした、「VG-α」。SF的な展開を詩の世界に持ち込もうとした作品の一つでもあった。(叙事詩に限らず、僕は詩誌「ファントマ」に掲載した「海の時代」に始まる連作のように、近未来を想定した作品を描くことがある。) 「VG-α」は、十代の頃に感じていた世間の欺瞞への憤りから構想された。当時は小説として描こうとしたが、こんな内容であった。人類が宇宙へと進出した遠い未来、異なる価値観を持つ異星の方々との交流のために、極めて儀礼的なやり取りを交す必要が生じる。地球と他文明との間での友好を確立するために、そうした証としての一輪の花を携えた使節団の船が虚空の彼方へと旅立つ。「友好を結ぶため」という大義名分とは無関係に、その宇宙船団の航海は、「陥れ、失敗させることによって、どちらかの星が覇権を得る」という陰謀に満ちたものであった。高校生だった僕は、大人たちの社交辞令的なものを嫌悪していた。そうした気持ちの中で、小学生の頃に読んだマゼランの世界一周にまつわる児童図書で知った、名誉や名声の為の企画の中で踏みにじられていく力のないものの存在も描けたらと考えた。でも、十代の僕には荷が重い内容であった。小説としては未完に終わった。六十代になって、叙事詩という形で完結させたいと願った。ネット上で気まぐれに書き始めたのだけれど、執筆中に(二〇二〇年末)に僕はコロナに感染した。そうしたあれこれで、結局この作品を完結させられないままに終わった。
 こうした作品群の前にも、近代国家形成の中で露わになった国体への異常な狂信性を追求した、「密室の遊戯」に始まる三部作。(内容としては、強い皇室制度への批判も含んでいる。)

 叙事という表現に関して、僕が感じている可能性が一つある。それは、作家が囚われている(牢獄のような)「今の時間や、そこでの枠組み」から解放された世界を描くことができるのではないかということである。
 ある意味、個人の思惑などは顧みない背景での物語を描くことで、囚われない世界でのナニモノか、個人という幻想に拘束されない何かを表出させることが出来るのではないかと。ただし、それは両刃の刃のような表現でもある。自由であることは、不穏であるものとみなされることでもある。
 けれども、今の僕の中では、不穏とされる立場を選ぶことを選びたい気持ちが強いのである。
 ある意味では、それはとても危険な誘惑なのである。昔、「特権的肉体論」という立場を表明された表現者の方がおられた。僕は、そうした発想が生まれる時代背景を目撃しつつ、子どもの頃から身体が弱かった自身を思い、「自分は排除される側なのだ」という感覚に苛まれた。

 何かしらの絶対性を背景として「物語」が構築されたとき、そこから排除される個人も生まれていく。

 自分が受け入れられない相手に対して、さんざん「排除」とも思える態度を選んできた僕が、今さら口にすると滑稽かもしれない。けれど、僕はさまざまな形で自分の選んできた表現手段が、何を損ねるものであったのかなという、それだけのことに向かい合いたいと思っている。

 僕が叙事詩を書こうとしているということと、いろいろと僕がやらかしてきたことに対するギャップ。ただ、一貫して僕は自分に対して問いかけてきた。とても素朴は一つの疑問を
「僕がやっていることに、一体どんな意味があるんだ。」
 それは、僕の劣等感にもなったし、野放図に振る舞うことの言い訳にもなった。

 表現活動を続けていくっていうのは、常に過去の自分が何をやってきたのかと付き合わされること。そんなことを、改めて思う。

 叙事詩という体裁の中でも、僕は僕にとって切実な何かを描くことが可能であればと、そんなことを夢想している。

二〇二四年 一二月八日





奥主榮