「合評会について」古溝真一郎
「合評会について」
軽い気持ちで詩の合評会をはじめて、今年で7年目になる。他に言いようもないのでそう呼んでいるけれど、合評会ってほんとうは何をするものなのかよくわかっていない。よくはわからないがとにかく詩の作品があり、人との対話があり、それだけで成り立つこの会の呼び名を「詩について・対話篇」にしたのは、わりとよかったように思う。
「詩について・対話篇」では、あらかじめ参加者の作品を読みこんでくることはほとんどない。集まったその場でそれぞれの詩をしばらく読み、1作品につき30分程度の対話を何度も繰り返していく。私は会の進行係ではあっても対話の交通整理はほとんどしないで、むしろ混ぜっ返すことも多い。特に目指すべきゴールもないから話がまとまっていくとは限らないし、ただ一定の時間がくれば終わって次の作品に移っていく。すべての作品を読み終えたら会が終わる。
主宰しているとはいえ、私が合評会について語れることはあまりない。合評会とは、参加者が作品を持ち寄ってみんなで批評し合う場のことだと一応は言ってみても、まず批評という言葉でいきなりつまずいてしまう。批評ってつまりなんなんだろうか。詩を書くときにも「詩ってなんなんだろうか」といきなりつまずいて、やっと書いてみたら誰かから「これは詩ではない」と言われたりするようなことが、批評についてもやっぱり起こっている気がする。「あなたのそれは批評ではなくて感想だよ」っていう。
「批評しようとして読むのと、感想を云おうとして読むのとでは、後者の方が詩をより深く味わえるのではないか。読んだといえるのではないか。」とツイッターで呟いたことがあった。大切な視点のような気はするがうまく説明はできない。詩を読む幸せのひとつがたとえば、作品から放たれたひかりによって読者自身が照らし出されるようなことだとしたら、それは批評よりも感想というかたちで誰かに伝わるはずだと思う、「詩の世界には書き手ばかりで批評が足りない」と言われたりするけれど、本当に足りないのは批評じゃなくて感想なんじゃないのかと思う、自分の知識や経験や心身の状態を曝けだすように誤魔化しのない感想を述べるときの気恥ずかしさ、それを乗り越えるための真摯さについて、いまは考えている。