「周辺シ 11」クヮン・アイ・ユウ
「供給過多の時代、誰からも必要とされなくても創ることが、私が私として生きることを助ける」
周辺シ、今回どうしてか書き上げるまでに特に苦労したように思う。なぜだろう。
「可処分時間」という言葉がある。「自分で自由に使うことができる時間」という意味らしい(私には「可処分所得」という言葉の方が馴染み深かったように思う)。睡眠や食事、仕事や家事育児を抜いたその平均時間は6時間程なのだそうだ。とは言えこれはあくまで平均なので、月の勤務時間が長時間に及ぶ方、介護や育児に勤しんでいらっしゃる方等、その方の状況によってはそれ程の時間がないだろうと想像が出来る。
可処分時間を人は何をして過ごしているのだろう。具体的な内容については、その人の好み等によっても様々だと思う。なのでここではまず二分してみる。一つは消費、もう一つは生産。実はこの文章を書き始めた時は、創作活動に関連させて消費と創造と述べようとした。しかしどうやら創造の対義語は模倣らしく、それを踏まえてこの文章を展開すると、話の内容が縦ではなく横に広がってしまいそうだと思われたので、ここではその話をするのはやめておくことにした。
先日、以下のように考えたことをXに投稿した。
>「今の世のなか可処分時間の激しい奪い合い。自らの行いそれが消費と情報収集のどちらであるのかと見極めることは容易ではない。」
私は可処分時間を何に使っているのだろう。日頃から、今私は<時間を消費している>、あるいは<将来の生産(ここでは創作・表現活動を指すものとして使いたい)の為の情報収集をしている>等と、果たして自覚出来ているだろうか。前述のXに投稿した内容は、無自覚の内に何かきっと大切なものを奪われているのではないかという焦りから書いたように振り返っている。「奪われている」と表せば被害的過ぎる表現かも知れない。なぜなら事実を言えば、私は私の時間を<好きに消費している>はずなのだから。しかしやはりどこか現状に疑問を抱いているのだと思う。何か立ち止まって考えたいこと、言いたいことがあるから、こうして書くのではないだろうか。
YouTubeでの動画視聴やサブスクリプション型サービスの利用等、利用料無料やたとえ有料であっても、月額利用料1,000円で消費し切れない量の膨大なコンテンツがそこにはある。周辺シを含め、こうやって文章を記すことより、漫然とYouTubeを観ている方が楽だ。でもふとした時に焦りを覚える。もしかしたら、将来の生産の為と理由付けしながら、実はただ消費しているだけではないか。その事実はとても恐ろしくて、認めるのは容易ではない。でも認めようと思う。私は多くの時間を消費して来ている。だからこそ、こうした場をいただくことには深い感謝をしている。
この文章は、私やあなたの人生が生産的でないと批判したり、だから私たちは生産的に生きなくてはならないのだ等と指摘したりする為のものではない。この世界では、行き過ぎた生産性への指摘は誤ったものであると既に一定数認識されていると私は理解している。周辺シは、馬野ミキさんから「詩の周辺」をテーマに何か連続して書いてみないかという旨のお誘いを受けて開始している。詩やその周辺とこの文章がどう関係しているのか。きっと何か関係があるはずだという、理屈ではない、感覚的なものから書き始めたように思う。
私の持ち味は感情表現だと思う。(これは消費ちゃうねん。勉強や。情報収集やねん)と誰にでもない自分に言い訳をしている内に死ぬものがあるとしたら、まさにそれだと思う。生きる為に死ぬなんて嫌だと思う。死ぬ為に生きてもいないけれど、生きる為に生きたいと、訳がわからないかも知れないけれど、そう思う。毎日人が創ったものに触れたり受け取ったりして、泣いたり笑ったりすることは悪いことではないと思う。大切なことだと思う。だけどその上で、私はそれだけを繰り返すのではなくて、他者不在の、自分で自分を震わせる悔しがらせる怒らせる悲しませる幸せにする感情表現を、創作をやっていきたいと、こう書いていて叫び出しそうな程に望んでいるのだと実感している。私が私をやめるなら何もしないでいいと思う。私は私をやめたくないし、行けるところまで突き進んで終わりたいから、これからも書いてゆきたい。声を使って表してゆきたい。なんだか声明のようになったけれど、このように考えている。
ご覧いただいた方、ありがとうございます。