「周辺シ 12」クヮン・アイ・ユウ

2024年01月12日

周辺シ12「一語の周辺」

「私たちは、本当の意味で出逢う前に別れてばかりいる」
 こう書いたのはいつだったか。言葉こそ交わしていても、街ですれ違うことと変わらない。いやむしろそれよりも、経緯もないのに別れの悲しみだけがただそこにある。繋がりと呼ぶには心許ない、か細い糸をかすめ合うような出逢い。
 私たちは、本来私たち自身が絶対的ではないものであるのにも関わらず、絶対的(ということにした)言葉のルールに暮らしている。言葉のルール(例えば「朝は「おはよう」、昼は「こんにちは」と言いましょう」だとか)を用立てて共通化して来たことで、私たちは一定の安心感を得た。「おはよう」と伝えれば「おはよう」と返事がある。それがどうだろう。ひとたび「昆布!」などと返って来たら。恐怖心や不安感を抱くかも知れない。おかしい人だと思うかも知れないし、もしかしたら笑っちゃうのかも知れない。
 福祉の仕事をしていて思うことは、言葉には今もなお魔法的側面があるということ。ここで言う魔法というのは、空が飛べるとか雨天を一瞬で晴天に出来るとかそういう明るい特性のことではない。それよりは、一部の限定された人たちだけが持つ特殊な技術という点に焦点を当てて話したい。2024年現在、言葉の使用は未だ魔法のそれである。
 先ほど「昆布」という言葉を例に挙げたが、あなたはあなたが今使用している言葉(の体系)を信じて止まない。よほどそれが難しい言葉でもない限り、相手にあなたの言葉は伝わるし、受け取る際にはあなたもまた理解することが出来る。けれどもしかしたらそれはあなたの勘違いかも知れない。相手に伝わっている/私は理解出来ているという勘違い。それから、あなたに届いた言葉の中であなたにとって意味がわからないものは、<意味不明の言葉>として仕分けされる。これは、<多数派から見て無体系と評価されるもの>と言い換えてもいいかも知れない。
 言葉の性質において重要なものの一つとして相対性があると思う。他者とのコミュニケーションにおいては、<相対性によって構成された相手の言語体系を理解しようと努めること>が重要であると考えている。その理解に必要な素地は、相手とやり取りする時間的な長さ・やりとりする回数の多さ・関わる際に時に生じる不快感への耐性ではないだろうか。たとえその時相手のことを宇宙人と非難して排除したい想いに駆られたとしてもぐっと堪える必要がある。それに個人的には、他者とのやり取りに違和感を抱いた際には、私こそが宇宙人かも知れないと自省することも重要だと思っている。
 ある側面から考えると、「青色」という言葉を辞書で引くとそこには<答え>があると言える。しかしながら、相手がその色にどんなイメージを抱いているのか、過去に起こったどんなポジティブ(ネガティブ)な体験とその言葉が紐づいているのか、緑色や紫色とはどのような関係かといったことについては記載がない。理解とは、相手専用の辞書を一から作るようなことなのかも知れない。
 日々の仕事では、直前まで行われた会話の文脈とは無縁と思われる地点から突然「昆布」という言葉が登場する。「昆布とは海藻の一種」という所持している辞書から離れて、「おにぎりの具」という連想ゲームからも離れる。白いキャンバスに一語だけを置く。相手はその言葉にポジティブ・ネガティブなイメージどちらを抱いているのか。その言葉と一緒に語られる他の単語にはどんなものがあるのか。登場する場面に一定の規則性はあるのか。発話時の表情・語気・動作はどうか。そして大切なことは、いくら知ろうと努めても、「わからない」ということがあるということを知っておくことなのかも知れない。つまりそれはニュートラルにしておくということだと思う。
 言葉の魔法的な側面に「一部の限定された人たちだけが持つ特殊な技術」があると前述した。これはある意味では誤りだと思う。言葉のルールを用いて共通化することで安心感を得るのはいい。しかしルールの外にあるとされる言葉(例えば前述の「昆布」)を使用する人のことを<特殊な技術のない人>と安易に区別することには危険性があると考える。私たちが便宜上のルールを設けたのは、安心感を得る為であったかも知れず、ある人とある集団間の違いを明確にすることが目的ではなかったと思う。いつの間にか後者に目的を見誤って行くようなことがもしも起こるのであれば、その先で排他的な行動が起こらないかと危惧する。考え過ぎだろうか。
 私はこれからも自らの言葉を魔法にせず、相手の言語体系を理解しようと努めて行きたい。そしてそれと同時に「わからない」も大切にして行きたい。わからない、けれど繋がっていること、繋がって行こうとする意志と行動を手離したくない。そう願う。





クヮン・アイ・ユウ